ば入るのだから、その時の用意に母は字を覚え出しているのだった。私が沈む[#「沈む」に傍点]少し前には、不揃《ふぞろ》いな大きな字だったが、それでもちアんと読める字を書いているのに私は吃驚《びっくり》した。――ところが、母親は須山に「会えないだろうか?」と訊《き》いて、さア会わない方がいゝでしょう、と云われると、「手紙も出せないでしょうねえ」と云ったそうである。私はそれを須山から聞いたとき、そう云ったときの母親の気持ちがジカに胸に来て弱った。
須山が帰るときに、母親は袷《あわせ》や襦袢《じゅばん》や猿又や足袋《たび》を渡し、それから彼に帰るのを少し待って貰って、台所の方へ行った。暫《しば》らく其処《そこ》でコト/\させていたが、何をしているのだろうと思っていると、卵を五つばかりゆで[#「ゆで」に傍点]ゝ持ってきた。そして卵は十銭に三つも四つもするのだから、新しいのを選んで必ず飲むように云ってくれと頼まれた。私はその「うで卵」を須山や伊藤などゝ食った。「な、伊藤、俺等一つでやめよう。後でおふくろにうらまれると困るから」と須山は笑った。伊藤は分からないように眼を拭《ふ》いていた。
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