ういう落付かない時は、えて危いと思った。私はつかまってはならない。私は「しるこ屋」に入ってゆっくり休み、それから帰ってきた。
私達は退路というものを持っていない。私たちの全生涯はたゞ仕事にのみうずめられているのだ。それは合法的な生活をしているものとはちがう。そこへもってきて、このような裏切的な行為だ。私たちはそれに対しては全身の憤怒と憎悪を感じる。今では我々は私的生活というべきものを持っていないのだから、全生涯的感情[#「全生涯的感情」に傍点]をもって(若《も》しもこんな言葉が許されるとしたら)、憤怒《ふんぬ》し、憎悪するのだ。
私はムッとしていたらしい。下宿の出入りには、おばさんに何時もちアんと言葉をかけることになっていながら、私はそれも忘れ、二階に上がってしまった。
私は机の前に坐ると、
「畜生!」
と云った。
その後、私は笠原と急に親しくなった。私は自分でも妙なものだと思った。彼女は頼んだ用事を何くれとなく、きちんと足してくれた。太田の裏切から私は最近別な地区に移ることに決めたが、自分で家を探がして歩くわけにも行かなかったので、それを笠原に頼んだ。それと同時に私は笠原と一緒になることを考えてみた。非合法の仕事を確実に、永くやって行くためにも、それは都合がよかった。
下宿に男が一人でいて、それが何処にも勤めていなくて、しかも毎夜(夜になると)外出する――これこそ、それと疑われる要素を完全に揃《そろ》えていることになる。工場に勤めていた時は、そんな点はまあよかったが。殊に一晩のうちに平均して三つか四つ連絡があって、その間に一時間もブランクがある時には、外でウロウロしているわけにも行かず、一《ひと》まず家に帰ってくる。そして又出掛ける。そんな時、おばさんは現実に奇妙な顔をした。何をして食っているんだろう? おばさんの奇妙な顔はそう云っている。こういう状態だと、戸籍調べの巡査が来た時に、直ぐ見当をつけられてしまうおそれがあったのだ。
笠原は会社に勤めているので、朝一定の時間に出る。そうなれば私がブラ/\しているように見えても、細君の給料で生活しているということになる。世間は一定の勤めをもっている人しか信用しないのだ。――それで私は笠原に、一緒になってくれるかどうかを訊《き》いた。それを聞くと、彼女は又突然あの大きな(大きくした)眼で私の顔を見はった。彼女
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