ら彼奴等の裏をかいて、同じ地区にいるのも悪くないと思った。嘗《か》つてこんな事がある。今ロシアに行っている同志のことであるが、その同志は他の同志が江東方面で活動している時は反対の城西方面に出没しているという噂《うわ》さを立てさせる戦術をとっているという話を聞くと、そいつは拙《まず》い、俺ならば江東にいる時には、かえって江東にいるという噂さを立てさせると云ったそうだ。私はこの地区ではまだ具体的にはスパイに顔を知られていなかった、それに工場もやめたので経済的な根拠から同じ地区に下宿を決めることにした。
 下宿はどっちかと云《い》えば、小商人の二階などが良かった。殊《こと》にそれが老人夫婦であれば尚《なお》よかった。その人たちは私たちの仕事に縁遠いし、二階の人の行動には、その理解に限度がある。なまじっか知識階級の家などは、出入や室の中を一眼見ただけでも、其処《そこ》に「世の常の人」らしからぬ空気を敏感に感じてしまうからである。然し、警察どもは小商人などのところへは度々《たびたび》戸籍調らべにやって来て、無遠慮な調らべ方をして行く代りに、門構でもあるような家には二度のところを一度にし、それもたゞ「変ったことがありませんか」位にとゞめる。――今度の下宿はその中間をゆく家だった。おばさんはもと待合をしていたことがあるとか云って、誰かの妾《めかけ》をしているらしかった。
 須山や伊藤から荷物を一通り集めて、ようやく落付くと私はホッとした。たゞ下の室に同宿の人がいるのが欠点だった。それで、第一にその人がどんな人か知る必要があった。私は便所へ降りて行った。同宿の人の室の障子が開いて居り、その人はいなかった。私は何より本箱[#「本箱」に傍点]に眼をやった。これは私が新しい下宿に行って、同宿のある時に取る第一の手段だった。本箱を見ると、その人が一体どういう人か直《す》ぐ見当がつくからである。――本箱には極く当り前の本ばかりが並んでいた。何処《どこ》かの学校の先生らしく、地理とか、歴史の本が多かった。ところが、机の上に「日本文学全集」が載っていた。フト見ると、「片岡鉄兵」や「葉山嘉樹《よしき》」などの巻頭の写真のところが展《ひろ》げられたまゝになっていた。然しその種の本はそれ一冊だけで、その他には持っていないらしかった。
 僕たちの仲間で、折角移ってきたところが、その下宿の主人が警察に勤め
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