左の眼の隅《すみ》に背広を置いて、油断をしなかった。背広はどっちかと云えば、毎日のおきまり仕事にうんざりして、どうでもいいような物ぐさな態度だった。彼等はこの頃では毎日、工場の出《で》と退《ひ》けに張り込んでいた。須山はこの直ぐ横を如何にも背広を小馬鹿にしたように、外開《そとびら》きの足をツン、ツンと延ばして歩いてゆく。それがこっちから見ていると分るので、可笑《おか》しかった。
電車路の雑沓に出てから、私は須山に追いついた。彼は鼻をこすりながら、何気ない風に四囲《まわり》を見廻わし、それから、
「どうもおかしいんだ……」
と云う。
私は須山の口元を見た。
「上田がヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]と切れたんだ……!」
「何時《いつ》だ?」
私が云った。
「昨日。」
ヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]は「予備線」など取って置く必要のない男だとは分っていたが、
「予備はあったのか?」と訊《き》いた。
「取っていたそうだ。」
彼の話によると、昨日の連絡は殊《こと》の外重要な用事があり、それは一日遅れるかどうかで大変な手違いとなるので、S川とM町とA橋この三つの電車停留所の間の街頭を使い、それもその前日二人で同じ場所を歩いて「此処《ここ》から此処まで」と決め、めずらしいことにはヒゲは更に「万一のことがあったら困る」というので、通りがかりに自分から[#「自分から」に傍点]安全そうな喫茶店を決め、街頭で会えなかったら二十分後に其処《そこ》にしようと云い、しかも別れる時お互の時計を合わせたそうである。「ヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]」そう呼ばれているこの同志は私達の一番上のポストにいる重要なキャップだった。今\迄《まで》ほゞ千回の連絡をとったうち、(それが全部街頭ばかりだったが)自分から遅れたのはたった二回という同志だった。我々のような仕事をしている以上それは当然のことではあるが、そういう男はそんなにザラには居なかった。しかもその二回というのが、一度は両方に思い違いがあったからで、時間はやっぱり正確に出掛けて行っているのである。モウ一度はその日の午後になってから時計に故障があったことを知らなかったからであった。他のものならば一度位来ないとしても、それ程ではなかったが、ヒゲ[#「ヒゲ」に傍点]が来ない、予備にまで来ないという事は私達には全《まっ》たく信ぜられなかった。
「今日はどうなんだ?」
「ウ
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