ぎていた。私はその間何べんも手拭《てぬぐい》でゴシ/\顔中をこすった。原稿の仕事をやると、汗をかくのだ。書き終えた原稿を封筒に入れ、表を出鱈目《でたらめ》な女名前にして、ラヴ・レターに仕立て、七時四十分に家を出た。「散歩してきます」と云うと、何時《いつ》も黙っているおばさんが、「行っていらっしゃい」と、こっちを向いて云った。効《き》きめはあらたかだ。私は暗がりに出ながら苦笑した。前に、何時《いつ》ものように家を出ようとした時、「あんたはヨク出る人ですねえ」と、おばさんが云ったことがある。私はギョッとした、事実毎晩出ていたので、疑えば疑えるのである。私は突嗟《とっさ》にドギついて、それでも「何んしろ、その……」と笑いながら云いかけると「まだ若いからでしょう?」と、おばさんは終《しま》いをとって、笑った。私はそれで、おばさんはあの[#「あの」に傍点]意味で云ったのではないことが分って安心した。
八時に会う場所は表の電車路を一つ裏道に入った町工場の沢山並んでいるところだった。それで路には商店の人たちや髪の前だけを延ばした職工が多かった。私は自分の出掛けて行く処によって、出来るだけ服装をそこに適応するように心掛けた。充分なことは出来なかったが、それは可なり大切なことなのだ。私達はいずれにしろ、不審\尋問《じんもん》を避けるためにキチンとした身装《みなり》をしていなければならなかったが、然《しか》し今のような場所で、八時というような時間に、洋服を着てステッキでもついて歩くことはかえって眼について悪かった。で、私は小ざッぱりした着物に無雑作《むぞうさ》に帯をしめ、帽子もかぶらずに出たのである。
真直ぐの道の向うを、右肩を振る癖のあるSのやってくるのが見えた。彼は私を認めると、一寸ショー・ウインドーに寄って、それから何気ないように小路を曲がって行った。私はその後を同じように曲がり、それからモウ一つ折れた通りで肩を並らべて歩き出した。
Sは私から一昨日入ったビラの工場内での模様を聞いた。色んな点を訊いてから、
「問題の取り上げは、何時《いつ》でも工場で話題になっていることから出発しているのは良いは良いが、――それらの一歩進んだ政治的[#「政治的」に傍点]な取り上げという点では欠けている。」
と云った。
私はびっくりして、Sの顔を見た。成る程と思った。私はビラの評判の良さに喜
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