の頁を振る動作をしていた自分にギョッと気付いたからだった。
彼はそれをつかむと、階段を下りて、街へ出て行った。だが、彼の顔色がなかった。
中 九
――君ちァん、君ちァん。――キイ公オ!
二階の函詰場《パッキング・ルーム》で、男工と女工がコンヴェイヤーの両側に向い合って、空罐を箱詰めにしていた。パッキングされた函《はこ》は、二階からエスカレーターに乗って、運河の岸壁に横付けにされている船に、そのまゝ荷役が出来る。――昼近くになって、罐が切れた。皆が手拭で身体の埃を払いながら、薄暗い階段を下りて行った時だった。暗い口を開らいている「製品倉庫」のなかから、低くひそめた声が呼んでいる。前掛けはしめ直していたお君が「クスッ」と笑って、――急いで四囲を見た。だまっていた。
――キイ公、じらすなよ!
お君はもう一度クッと笑って、倉庫の中へ身体を跳ねらした。
――ア、暗い。
ワザと上わずった声を出して、両手で眼を覆った。居ない、居ないをしているように。
――こっちだ。
男の手が肩にかゝった。
――いや。
女が身体をひいた。
――何が「いや」だって。手ば除《の》けれよ。
――…………。
お君は男の胸を直接《じか》に感じながら、身体をいや/\させた。
――手ば取れッたら。な。さ。ん?
女はもっとそうしていることに妙な興奮と興味を覚えた。男は無理に両手を除けさせて、後に廻わした片手で、女の身体をグイとしめつけてしまった。女は男の腕の中に、身体をくねらした。そして、顔を仰向けにしたまゝ、いたずらに、ワザと男の唇を色々にさけた。男は女の頬や額に唇を打つけた。
――駄目だ、人が来るど!
男はあせって、のど[#「のど」に傍点]にからんだ声を出した。お君はとう/\声を出して笑い出した。そして背のびをするように、男の肩に手をかけた……。
――上手だなア。
男が云った。
――モチ! 癖になるから、あんたとはこれでお終《しま》いよ!
男が自由にグイ/\引きずり廻わされるのが可笑しかった。お君はそう云うと、身体を翻《ひる》がえして、上気した頬のまゝ、階段を跳ね降りて行った。
お君は昼過ぎになってから、然し急に燥《はし》ゃぐことをやめてしまった。
昼飯時の食堂は何時ものように、女工たちがガヤ/\と自分の場所を仲間たちできめていた。お君は仲良しの女工に呼ばれて、そこで腰を並べて、昼食をたべた。
――ねえ!
ワザ/\お君を呼んだ話好きな友達が、声をひそめた。
――驚いッちまった!
女は昨日仕事の跡片付けで、皆より遅くなり、工場の中が薄暗くなりかけた頃、脱衣場から下りてきた。その降り口が丁度「ラバー小屋」になっていた。知らずに降りてきた友達はフトそこで足をとめた。小屋の中に誰かいると思ったからだった。女の足をとめた所から少し斜め下の、高くハメ込んである小さい硝子窓の中に――男と女の薄い影が動いている。
――それがねエ!
女は口を抑えて、もっと低い声を出した。
男はこっちには背を見せて、ズボンのバンドをしめていた。女は窓の方を向いたまゝうつ向いて、髪に手をやっている。男はバンドを締めてしまうと、後から女の肩に手をかけた。そして片方の手をポケットに入れた。ポケットの中の手が何かを探がしているらしかった。
――お金よ! 男がそのお金を女の帯の間に入れてやったのよ、どう?
――…………※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
――で、その女の人一体誰と思う?
いたずらゝしい光を一杯にたゝえた眼で、お君をジッと見た。
――誰だか分ったの?
――それアもう! そういうことはねえ。
――…………?
――芳ちゃんさ[#「芳ちゃんさ」に傍点]!
――馬鹿な!
お君は反射的にハネかえした。
――フン、それならそれでいゝさ。
女は肩をしゃくった。
お君は一寸だまった。
――相手は?
――相手? お金商売だもの一日変りだろうよ。誰だっていゝでしょうさ。
何時でも寒そうな唇の色をしている芳ちゃんは、そう云えば四人の一家を一人で支えていた。お君はそのことを思い出した。――それをこんな調子でものを云う女に、お君はもち前の向かッ腹を立てゝしまった。
――でも、妾《わたし》たちの日給いくらだと思っているの。五十銭から七八十銭。月いくらになるか直してごらんよ。――淫乱《すき》なら無償《ただ》でやらせらアねえ!
お君は飯が終って立ちかけながら、上から浴びせかけた。そして先きに食堂を出てしまった。
――馬鹿にしてる!
十
午後から女学生の「工場参観」があると云うので、男工たちは燥ゃいでいた。
――ヘンだ。ナッパ服と女学生様か! よくお似合いますこと!
女工たちは露骨な
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