七
この会合は来るときも、帰るときも必ず連れ立たないことにされていた。森本も鈴木も別々に帰った。
……俺へばりついても、この仕事だけはやって行こうと思ってる。命が的になるかも知れないが……。
前に帰ったものとの間隔を置くために待っていた河田が厚い肩をゆすぶった。
――警察ではこう云ってるそうだ。俺とか君とか鈴木とか、表《おもて》に出てしまった人間なんて、チットも恐ろしくない。これからは顔の知られない奴だって。彼奴《きゃつ》等だって、ちァんと俺たちの運動の方向[#「方向」に傍点]をつかんだ云い方をするよ。だから彼奴等のスパイ政策も変ってきたらしい。特高係とか何んとか、所詮表看板をブラ下げたものに彼奴等自身もあまり重きを置かなくなってきたらしいんだ。
――フうん、やるもんだな。
――合法活動ならイザ知らず、運動が沈んでくれば、そんなスパイの踏みこめるところなど知れたものだ。恐ろしいのは仲間がスパイの時だ。或いは途中でスパイにされたときだ。買収だな。早い話が……。
――オイ/\頼むぜ。
石川がムキな声を出した。
――ハヽヽヽヽ。まアさ、君がこっそり貰ってるとすれば、今晩のことはそのまゝ筒抜けだ。特高係など、私が労働運動者ですと、フレて歩く合法主義者と同じで、恐ろしさには限度があるんだ。外部でなくて内部だよ。
――また気味の悪いことを云いやがるな。
河田はだが屈託なさそうに、鉢の大きい頭をゴシ/\掻《か》いて笑った。それから、
――本当だぜ!
と云った。そして腕時計を見た。
――今日は俺が先きに帰るからな。
河田はそこから出ると、萬百貨店の前のアスファルトを、片手にハンカチを持って歩いていた。一寸蹲めば分る小間物屋の時計が八時を指していた。彼は其処を二度往き来した。敷島をふかしてくる男と会うためだった。彼が前にその男から受取った手紙の日附から丁度十日目の午後八時だった。それは約束された時間だった。彼は表の方を注意しながら、三銭切手を一枚買った。会ったときの合図にそれが必要だった。その店を出しなに、フト前から来る背広の人が敷島をふかしているのに気付いた。彼はその服装を見た。一寸|躊躇《ちゅうちょ》を感じた。然しその眼は明かに誰かを探がしていた。彼は思わずハンカチを握っている掌《てのひら》に力が入った。
男が寄ってきた。で彼も何気ない様子を装って、その男と同じ方へ歩き出した。彼から口を切った。
――山[#「山」に傍点]田です。
すると、背広の男は直ぐ
――川[#「川」に傍点]村。
と云った。
「山」と「川」が合った。二人は人通りのあまり多くない河|端《ぶち》を下りて行った。少し行くと、男が、
――何処か休む処がないですか。
と云った。
――そうですね。
河田は両側を探して歩いた。そして小さいレストランの二階へ上った。
テーブルに坐ると、男がポケットから三銭切手を出した。その 3sn の 3 がインクで消されていた。河田もさっきの三銭切手を出して、その sn の方を消した。二人は完全に「同志」であることが分った。――男は中央から派遣されてきた党のオルガナイザーだった。
河田はY地方の情勢や党員獲得数などを、そこで話し出した。
八
鈴木は少しでも長く河田や石川などゝいることに苦痛を覚えた。彼は心が少しも楽しまないのだ。誇張なしに、彼は自分があらゆるものから隔てられている事を感じていた。そしてその感情に何時でも負かされていた。――およそ、プロレタリヤ的でない! 然し自分は一体「運動」を通じて、運動をしているのか、「人」を信じて運動をしているのか? 河田や石川が自分にとって、どうであろうと、それが自分の運動に対する「気持」を一体どうにも変えようが無い筈ではないか。――又変えてはならないのだ。そうだ、それは分る。然し直ぐ次にくるこの「淋しさ」は何んだろう? ――彼はもう自分が道を踏み迷っていることを知っていた。
理論的にも、実践的にも、それに個人的な感情の上からでも、あせっている自分の肩先きを、グイ/\と乗り越してゆく仲間を見ることに、彼は拷問にたえる以上の苦痛を感じた。こういう迷いの一ッ切れも感じたことのないらしい他の同志を、彼はうらやましく思った。――然し彼はこういう無産運動が、外から見る程の華々しい純情的なものでもなく、醜いいがみ合いと小商人たちより劣る掛引に充ちていることを知った。それは彼に恐ろしいまでの失望を強いた。
――運動ではお前は河田達の先輩なんだぜ。
その言葉の陰は「それでも口惜《くや》しくないのか。」と云っていた。それは撒ビラのことで、二十九日食ったときの事だった。然しそんな事を云うのは、よく使われる特高係の「手」であるこ
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