二つ並んでいる頭を両方からゴツンとやった。
 ――出歯亀!
 女の方で何か云いながら、一度にワッ、と笑い出した。すると、こっちでもわざと声をあげた。
 洗面所を出ると、出口で両方から一緒になった。帰るとき、女たちはまるッきり別な人[#「別な人」に傍点]になって出てきた。
 ――お前は誰だっけな?
 煙筒や汽罐の打鋲《リベッティング》をやっている六十に近い眼の悪い、耳の遠い職工には、本当に見分けがつかない。
 ――プッ! お爺さん、色気なくなったね。
 そして女に背中をたゝかれた。
 ――お婆さんを間違わないでね。
 ――こん畜生!
 会社は、女工が帰りに「お嬢さん」になることにも、カフエーの「女給《ウエイトレス》」になることにも、職工が「学生」になることにも、「会社員」になることにも、黙っていた。それだけの事が出来るから、そうするので、そこには少しの差支もある筈《はず》がない。Y市を見渡してみても、職工にそれだけのことの出来る待遇を与えている工場はあるまい、工場長はそう云っていた。
 洗面所を出ると、狭い廊下を肩で押し合いながら、二階の「脱衣室」に上って行った。両側が廃品《アウト》倉庫になって居り、箱が何十階のビルジングのように、うず高く積まさっていた。そこは暗かった。――女がキャッ! と叫んだ。そこへ来ると、誰か女によく悪戯《いたずら》した。
 ――この、いけすかない男!
 ――オイ、今日は……?
 ――今日? 約束があるの。
 ――本当か。何んの約束だ。誰と?
 ――これでも、ちァんとね。
 ――こん畜生!
 其処《そこ》では、何時でも手早い「やりとり」が交わされることになっていた。
 職工はよく仕事をしながら、次の持場にいる女と夜会う約束をするために、コンヴェイヤーに乗って来る罐詰に、
「ハシ、六」
 と書いてやる。男は手先きだけ動かしながら、その罐が機械の向うかげにいる女の前を通って行くのを見ている。女はチラッと見つけると、それを消して、そして男に微笑《ほほえ》んでみせる。
 ――「六時、何時もの橋のところ」というのが、その意味だった。そういうのが幾組もある。
 森本は顔をしかめた。こういう中から一体自分たちの仕事の仲間になってくれるようなものが、何人出るのだ。それを思うと、胸の下が妙に不安になり、落付けなくなった。

 脱衣所の入口に掲示が出ていた。森本は始め「ホオッ!」と思った。皆が服の袖に手を通しながら、その前に立っていた。
[#ここから3字下げ、罫囲み]
   告

 皆サンモ知ッテイル通リ、本日何者カヾ当工場ニ「失業者大会」ノビラ[#「ビラ」に傍点]ヲ撒イテ行キマシタ。云ウマデモナク最近ノ不況ハドシ/\失業者ヲ街頭ニ投ゲ出シテ居リ、ソレハ全く見ルニ忍ビナイモノサエアルノデス。然シ我工場ハ幸イニシテ、皆サンノ勤勉努力にヨッテ、ソノ些々タル影響モ受ケテイナイノデアリマス。一度工場外ニ足ヲフミ出シテ見レバ分ル通リ、当工場ハマサニ「Yノフォード[#「Yノフォード」に傍点]」タル名ニ恥シクナイ充分ノ待遇ヲ、ソノ時間ノ点カラ云ッテモ、ソノ賃銀ノ上カラ云ッテモ、皆サンニ与エテ居ルノデアリマスカラ、コノ際決シテ、カヽル宣伝ニ附和雷同セザル様、呉々モ申述ベテ置ク次第デアリマス。
 右[#地から1字上げ]工場長
[#ここで字下げ終わり]
 森本はそれを読むのに何故かあせり[#「あせり」に傍点]を感じて、字を飛ばした。
 ――チエッ! 行きとゞいてやがる!
 彼はその言葉が、自分ながら不覚にもかぶと[#「かぶと」に傍点]を脱いだ心のゆるみを出しているのにハッとした。彼は油っぽい形のくずれた鳥打ちを無雑作にかぶった。
 工場の前の狭い通りを、その幅を一杯にみたして、職工や女工が同じ方向へ流れていた。彼はその中に入りながら、独《ひと》りであることのうそ寒さを感じていた。
 運河の鉄橋を渡ると、税関や波止場、水上署、汽船会社、倉庫続きの浜通りだった。――浜人夫がタオ/\としわむ「歩板《あゆみ》」を渡って、艀から荷降しをしていた。然し所々に何人もの人夫が固まって、立っていた。それ等の労働者は瀬戸を重ねた大きな弁当を、地べたにそのまゝ置いたり、ぶら下げたり、他の人達の働いているのを見ていた。――「あぶれた」人夫達だった。
 夏枯《なつがれ》時で、港には仕事らしい仕事は一つもないのだ。市役所へおしかけようとしている連中がそれだった。岸壁につながっている艀はどの艀も死んだ鰈を思わせた。桟橋《さんばし》に近い道端に、林檎《りんご》や夏|蜜柑《みかん》を積み重ねた売子が、人の足元をポカンと坐って見ていた。
 その「あぶれた」人足たちは「H・S工場」の職工達が鉄橋を渡ってくるのを見ていた。ありありと羨望の色が彼等の顔をゆがめていた。「H・S」の職工た
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