の人達は、用事で市の中央に出掛けて行くのに、「Yへ行ってくる」と云った。何か離れた田舎からでも出掛けて行くように。乗合自動車も、円タクも、人力車もT町迄だと、市外と同じ「割増し」をとった。――こゝは暗くて、ジメ/\していて、臭《くさ》くて、煤《すす》けていた。労働者の街だった。つぶれた羊羹《ようかん》のような長屋が、足場の据《すわ》らないジュク/\した湿地に、床を埋めている。
森本は暗いところを選んで歩いた。角を曲がる時だけ立ち止った。場所はワザと賑かな、明るい通りに面した家にされていた。裏がそこの入口だった。彼は決められていたように、二度その家の前を往復してみて、裏口へまわった。戸を開けると、鼻ッ先きに勾配の急な階段がせまった。彼は爪先きで探《さぐ》って――階段の刻《きざ》みを一つ一つ登った。粗末な階段はハネつるべのようなキシミを足元でたてた。彼は少し猫背の厚い肩を窮屈にゆがめた。頭がつッかえた。
――誰?
上から光の幅と一緒に、河田の声が落ちてきた。
――森。
――あ、ご苦労。
室一杯煙草の煙がこめて、喫《の》みつくしたバットの口と吸殻が小皿から乱雑に畳の上に、こぼれていた。何か別な討議がされた後らしい。立ってきた河田は、森本の入った後を自分で閉めた。彼は大きな臼のような頭をガリ、ガリに刈っていた。それにのそり[#「のそり」に傍点]と身体が大きいので、「悪党坊主」を思わせた。何時でも、ものゝ云い方がブッキラ棒なので、人には傲慢《ごうまん》だと思われていたかも知れなかった。然しそれだから岩のようなすわり[#「すわり」に傍点]があるんだ、と組合のものが云っていた。
仰向《あおむ》けになって、バットの銀紙で台付コップを拵《こし》らえていた石川が、彼を見ると頭をあげた。
――よオッ!
石川はもと「R鋳物工場」にいたことがあるので、前からよく知っていた。彼が河田を知ったのも、石川の紹介からだった。石川が組合に入るようになってから、森本はそういう方面の教育を色々彼から受けた。それまでの彼は、普通の職工と同じように、安淫売をひやかしたり、活動をのぞいたり、買喰いをしたり喧嘩をして歩いていた。それから青年団の演説もキッパリやめてしまった。
もう一人の鈴木とは前に一寸しか会っていなかった。神経質らしい、一番鋭い顔をしていた。何時でも不機嫌らしく口数が少なかった
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