くなと云った通り、自分の名前も、宛《あ》てた森本の名も書いてなかった。
 夏の遅い日暮がくると、団扇《うちわ》位のなま涼しい風が――分らないうちに吹いてきていた。白い、さらしの襦袢《じゅばん》一枚だけで、小路に出ていた長屋の人達が、ようやく低いパン窯《かまど》のような家の中に入ってきた。棒切れをもった子供の一隊が、着物の前をはだけて、泥溝《どぶ》板をガタ/\させ、走り廻っていた。何時迄も夕映《ゆうばえ》を残して、澄んでいる空に、その喚声がひゞきかえった。
 ――腹減らしの餓鬼《がき》どもだ!
 父が帰ってきた。父は入口でノドをゴロ、ゴロならした。
 ――どうだった、父《とっ》ちゃの方は?
 ――ン?
 彼は父が何時でも「労働者大会」とか「労働組合」とか、そんなものに反対なのを知っている。父はそれだから二十何年も勤めて来られたのかもしれない。そして今毛一本程の危《あやう》さで、首をつないでいるにしても、自分は「日雇」でない、だから、そんなワケの分らないことに引きずり込まれたらこと[#「こと」に傍点]だと思っているらしかった。
 ――事務所の前で気勢ば上げていたケ。あぶれた奴等ば集めてナ。
 ――組合のものだべ、あれア!
 父は新聞の話でもするような無関心さで云った。
 ――他人《ひと》事でないど、父ちゃ。今に首になればな。
 父は返事をしないで、薄暗い土間にゴソ、ゴソ音をさせた。少しでも暗いと、「ガス」のかゝった眼は、まるッきり父をどまつかせた。父は裏へまわって行った。便所のすぐ横に、父は無器用な棚をこしらえて、それに花鉢を三つ程ならべていた。その辺は便所の匂いで、プン/\していた。父は家を出ると、キット夜店から値切った安い鉢《はち》を買ってくる。
 ――この道楽爺! 飯もロク/\食えねえ時に!
 母はその度に怒鳴った。その外のことでは、ひどい喧嘩《けんか》になることがあっても、鉢のことだと父は不思議に、何時でもたゞニヤ/\していた。――父はおかしい程それを大事にした。帰ってくると、家へ上る前に必ず自分で水をやることにしていた。仕方なく誰かに頼んで、頼んだものが忘れることでもあると、父は本気に怒った。――可哀相に、奴隷根性のハケ口さ、と森本は笑っていた。
 ――今日の暑気で、どれもグンナリだ。
 裏で独言《ひとりごと》を云っているのが聞えた。
「H・S工場」にも、少し
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