分にはどん底の生活をしている可哀相な女がいる。それが自分のたった一人の女だ、と話したことがあった。
――鈴木さんに限らず、男ッて……。
お君がそう云って、――何時もの癖で、いたずらゝしく、クスッと笑った。
――あんたゞけはそれでも少ォし別よ……。
――それはね。
森本は自分でも変なハズミから、言葉をすべらした。然し、何んだか、今云わなければ、それがそれッ切りのような気がした。彼は恐ろしく真面目な、低い声を出した。
――それはね、君ちゃんを本当に……愛してるからさ!
「ま、おかしい! 何云ってるのさ、この男が!」――あの明るい、無遠慮に大きい笑い声が、この我ながら甘ッたるい、言葉を吹き飛ばしてしまうだろう、森本は云ってしまった瞬間、それに気付いて、カアッと赤くなった。――が、お君はフイ[#「フイ」に傍点]に黙った。二人はそれっきり何も云わないで、撥《ばつ》の悪い気持のまゝ歩いて行った。
橋の上へ来たとき、彼が気付いた。――彼はお君を一寸先きに行って貰って、服のポケットを全部調べた。内ポケットの中から、四つに折った、折目がボロ/\になった薄いパンフレットが出た。河田から貰った焼き捨てなければならないものだった。彼はそれを充分に細かく幾つにも切って河に捨てた。闇の澱んでいる暗い河の表に、その紙片がクッキリと白く浮かんで、ひらひらと落ちて行った。時間を置いて、何回かにそれを分けた。――そうしているうちに、彼は落着いてくる自分を感じた。
お君は厚いショウ・ウインドウの硝子に身体を寄りかけたまゝ、彼を待っていた。彼は矢張り何も云わなかった。
別れるところへ来て、立ちどまった時、森本は始めて女の手を握って云った。
――元気を出して、もう一ふんばり、ふんばろう! 「Yのフォード」が俺たちの力で、ピタリと止まることもあるんだからな!
お君はうつむいたまゝ、彼の顔を見ないで、――握りかえしていた。
森本は家の戸を開けたとき、ハッ! とした。彼は然し何も見たわけではなかった、が、それはこんな時に、彼等だけが閃きのように持つ一つの直感だった。――ガラッと障子が開いた。見なれない背広が二人そこへ突ッ立った。――失敗《しま》ったと思った。彼には初めての経験だった。――だがこうなってしまった時、彼は不思議に落付きを失っていなかった。
――どなたです?
――フン。
背
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