た。
余程過ぎてからだった。――「糞壺」の階段を南京袋のように漁夫が転がって来た。着物と右手がすっかり血まみれになっていた。
「出刃、出刃! 出刃を取ってくれ!」土間を匐《は》いながら、叫んでいる。「浅川の野郎、何処へ行きゃがった。居ねえんだ。殺してやるんだ」
監督のためになぐられたことのある漁夫だった。――その男はストーヴのデレッキを持って、眼の色をかえて、又出て行った。誰もそれをとめなかった。
「な!」函館の漁夫は友達を見上げた。「漁夫だって、何時も木の根ッこみたいな馬鹿でねえんだな。面白くなるど!」
次の朝になって、監督の窓硝子《まどガラス》からテーブルの道具が、すっかり滅茶苦茶に壊《こわ》されていたことが分った。監督だけは、何処にいたのか運良く「こわされて[#「こわされて」に傍点]」いなかった。
六
柔かい雨曇りだった。――前の日まで降っていた。それが上りかけた頃だった。曇った空と同じ色の雨が、これもやはり曇った空と同じ色の海に、時々|和《なご》やかな円るい波紋を落していた。
午《ひる》過ぎ、駆逐艦がやって来た。手の空いた漁夫や雑夫や船員が、デッキの手すりに寄って、見とれながら、駆逐艦についてガヤガヤ話しあった。物めずらしかった。
駆逐艦からは、小さいボートが降ろされて、士官連が本船へやってきた。サイドに斜めに降ろされたタラップの、下のおどり場には船長、工場代表、監督、雑夫長が待っていた。ボートが横付けになると、お互に挙手の礼をして船長が先頭に上ってきた。監督が上をひょいと見ると、眉《まゆ》と口隅をゆがめて、手を振って見せた。「何を見てるんだ。行ってろ、行ってろ!」
「偉張んねえ、野郎!」――ゾロゾロデッキを後のものが前を順に押しながら、工場へ降りて行った。生ッ臭い匂いが、デッキにただよって、残った。
「臭いね」綺麗な口髭《くちひげ》の若い士官が、上品に顔をしかめた。
後からついてきた監督が、周章《あわ》てて前へ出ると、何か云って、頭を何度も下げた。
皆は遠くから飾りのついた短剣が、歩くたびに尻に当って、跳ね上がるのを見ていた。どれが、どれよりも偉いとか偉くないとか、それを本気で云い合った。しまいに喧嘩のようになった。
「ああなると、浅川も見られたもんでないな」
監督のペコペコした恰好《かっこう》を真似《まね》して見せた。皆はそれでドッと笑った。
その日、監督も雑夫長もいないので、皆は気楽に仕事をした。唄《うた》をうたったり、機械越しに声高《こわだか》に話し合った。
「こんな風に仕事をさせたら、どんなもんだべな」
皆が仕事を終えて、上甲板に上ってきた。サロンの前を通ると、中から酔払って、無遠慮に大声で喚《わめ》き散らしているのが聞えた。
給仕《ボーイ》が出てきた。サロンの中は煙草の煙でムンムンしていた。
給仕の上気した顔には、汗が一つ一つ粒になって出ていた。両手に空のビール瓶《びん》を一杯もっていた。顎《あご》で、ズボンのポケットを知らせて、
「顔を頼む」と云った。
漁夫がハンカチを出してふいてやりながら、サロンを見て、「何してるんだ?」ときいた。
「イヤ、大変さ。ガブガブ飲みながら、何を話してるかって云えば――女のアレがどうしたとか、こうしたとかよ。お蔭で百回も走らせられるんだ。農林省の役人が来れば来たでタラップからタタキ落ちる程酔払うしな!」
「何しに来るんだべ?」
給仕は、分らんさ、という顔をして、急いでコック場に走って行った。
箸《はし》では食いづらいボロボロな南京米に、紙ッ切れのような、実が浮んでいる塩ッぽい味噌汁で、漁夫等が飯を食った。
「食ったことも、見たことも無えん洋食が、サロンさ何んぼも行ったな」
「糞喰え――だ」
テーブルの側の壁には、
[#ここから2字下げ]
一、飯のことで文句を云うものは、偉い人間になれぬ。
一、一粒の米を大切にせよ。血と汗の賜物《たまもの》なり。
一、不自由と苦しさに耐えよ。
[#ここで字下げ終わり]
振仮名がついた下手な字で、ビラが貼《は》らさっていた。下の余白には、共同便所の中にあるような猥褻《わいせつ》な落書がされていた。
飯が終ると、寝るまでの一寸の間、ストーヴを囲んだ。――駆逐艦のことから、兵隊の話が出た。漁夫には秋田、青森、岩手の百姓[#「百姓」に傍点]が多かった。それで兵隊のことになると、訳が分らず、夢中になった。兵隊に行ってきたものが多かった。彼等は、今では、その当時の残虐に充ちた兵隊の生活をかえって懐《なつか》しいものに、色々|想《おも》い出していた。
皆寝てしまうと、急に、サロンで騒いでいる音が、デッキの板や、サイドを伝って、此処まで聞えてきた。ひょいと眼をさますと、「まだやっている」のが耳に入った。――もう夜が明けるんではないか。誰か――給仕かも知れない、甲板を行ったり、来たりしている靴の踵《かかと》のコツ、コツという音がしていた。実際、そして、騒ぎは夜明けまで続いた。
士官連はそれでも駆逐艦に帰って行ったらしく、タラップは降ろされたままになっていた。そして、その段々に飯粒や蟹の肉や茶色のドロドロしたものが、ゴジャゴジャになった嘔吐《へど》が、五、六段続いて、かかっていた。嘔吐からは腐ったアルコールの臭《にお》いが強く、鼻にプーンときた。胸が思わずカアーッとくる匂いだった。
駆逐艦は翼をおさめた灰色の水鳥のように、見えない程に身体をゆすって、浮かんでいた。それは身体全体が「眠り」を貪《むさぼ》っているように見えた。煙筒からは煙草の煙よりも細い煙が風のない空に、毛糸のように上っていた。
監督や雑夫長などは昼になっても起きて来なかった。
「勝手な畜生だ!」仕事をしながら、ブツブツ云った。
コック部屋の隅《すみ》には、粗末に食い散らされた空の蟹罐詰やビール瓶が山積みに積まさっていた。朝になると、それを運んで歩いたボーイ自身でさえ、よくこんなに飲んだり、食ったりしたもんだ、と吃驚《びっくり》した。
給仕は仕事の関係で、漁夫や船員などが、とても窺《うかが》い知ることの出来ない船長や監督、工場代表などのムキ[#「ムキ」に傍点]出しの生活をよく知っていた。と同時に、漁夫達の惨《みじ》めな生活(監督は酔うと、漁夫達を「豚奴《ぶため》々々」と云っていた)も、ハッキリ対比されて知っている。公平に云って[#「公平に云って」に傍点]、上の人間はゴウマン[#「ゴウマン」に傍点]で、恐ろしいことを儲《もう》けのために「平気」で謀《たくら》んだ。漁夫や船員はそれにウマウマ[#「ウマウマ」に傍点]落ち込んで行った。――それは見ていられなかった。
何も知らないうちはいい、給仕は何時もそう考えていた。彼は、当然どういうことが起るか――起らないではいないか、それが自分で分るように思っていた。
二時頃だった。船長や監督等は、下手に畳んでおいたために出来たらしい、色々な折目のついた服を着て、罐詰を船員二人に持たして、発動機船で駆逐艦に出掛けて行った。甲板で蟹外しをしていた漁夫や雑夫が、手を休めずに「嫁行列」でも見るように、それを見ていた。
「何やるんだか、分ったもんでねえな」
「俺達の作った罐詰ば、まるで糞紙よりも粗末にしやがる!」
「然しな……」中年を過ぎかけている、左手の指が三本よりない漁夫だった。「こんな処まで来て、ワザワザ俺達ば守っててけるんだもの、ええさ――な」
――その夕方、駆逐艦が、知らないうちにムクムクと煙突から煙を出し初めた。デッキを急がしく水兵が行ったり来たりし出した。そして、それから三十分程して動き出した。艦尾の旗がハタハタと風にはためく音が聞えた。蟹工船では、船長の発声で、「万歳」を叫んだ。
夕飯が終ってから、「糞壺」へ給仕がおりてきた。皆はストーヴの周囲で話していた。薄暗い電燈の下に立って行って、シャツから虱を取っているのもいた。電燈を横切る度《たび》に、大きな影がペンキを塗った、煤《すす》けたサイドに斜めにうつった。
「士官や船長や監督の話だけれどもな、今度ロシアの領地へこっそり潜入して漁をするそうだど。それで駆逐艦がしっきりなしに、側にいて番[#「番」に傍点]をしてくれるそうだ――大部、コレ[#「コレ」に傍点]やってるらしいな。(拇指と人差指で円るくしてみせた)
「皆の話を聞いていると、金がそのままゴロゴロ転《ころ》がっているようなカムサツカや北樺太など、この辺一帯を、行く行くはどうしても日本のものにするそうだ。日本のアレ[#「アレ」に傍点]は支那や満洲ばかりでなしに、こっちの方面も大切だって云うんだ。それにはここの会社が三菱などと一緒になって、政府をウマクつッついているらしい。今度社長が代議士になれば、もっとそれをドンドンやるようだど。
「それでさ、駆逐艦が蟹工船の警備に出動すると云ったところで、どうしてどうして、そればかりの目的でなくて、この辺の海、北樺太、千島の附近まで詳細に測量したり気候を調べたりするのが、かえって大目的で、万一のアレ[#「アレ」に傍点]に手ぬかりなくする訳だな。これア秘密だろうと思うんだが、千島の一番端の島に、コッソリ大砲を運んだり、重油を運んだりしているそうだ。
「俺初めて聞いて吃驚《びっくり》したんだけれどもな、今までの日本のどの戦争でも、本当は――底の底を割ってみれば、みんな二人か三人の金持の(そのかわり大金持の)指図で、動機《きっかけ》だけは色々にこじつけて起したもんだとよ。何んしろ見込のある場所[#「見込のある場所」に傍点]を手に入れたくて、手に入れたくてパタパタしてるんだそうだからな、そいつ等は。――危いそうだ」
七
ウインチがガラガラとなって、川崎船が下がってきた。丁度その下に漁夫が四人程居て、ウインチの腕が短いので、下りてくる川崎船をデッキの外側に押してやって、海までそれが下りれるようにしてやっていた。――よく危いことがあった。ボロ船のウインチは、脚気《かっけ》の膝《ひざ》のようにギクシャクとしていた。ワイヤーを巻いている歯車の工合で、グイと片方のワイヤーだけが跛《びっこ》にのびる。川崎船が燻製鰊《くんせいにしん》のように、すっかり斜めにブラ下がってしまうことがある。その時、不意を喰《く》らって、下にいた漁夫がよく怪我《けが》をした。――その朝それがあった。「あッ、危い!」誰か叫んだ。真上からタタキのめされて、下の漁夫の首が胸の中に、杭《くい》のように入り込んでしまった。
漁夫達は船医のところへ抱《かか》えこんだ。彼等のうちで、今ではハッキリ監督などに対して「畜生!」と思っている者等は、医者に「診断書」を書いて貰うように頼むことにした。監督は蛇に人間の皮をきせたような奴だから、何んとかキット難くせを「ぬかす」に違いなかった。その時の抗議のために診断書は必要だった。それに船医は割合漁夫や船員に同情を持っていた。
「この船は仕事[#「仕事」に傍点]をして怪我をしたり、病気になったりするよりも、ひッぱたかれたり、たたきのめされたりして怪我したり、病気したりする方が、ずウッと多いんだからねえ」と驚いていた。一々日記につけて、後の証拠にしなければならない、と云っていた。それで、病気や怪我をした漁夫や船員などを割合に親切に見てくれていた。
診断書を作って貰いたいんですけれどもと、一人が切り出した。
初め、吃驚したようだった。
「さあ、診断書はねえ……」
「この通りに書いて下さればいいんですが」
はがゆかった。
「この船では、それを書かせないことになってるんだよ。勝手にそう決めたらしいんだが。……後々のこと[#「後々のこと」に傍点]があるんでね」
気の短い、吃《ども》りの漁夫が「チェッ!」と舌打ちをしてしまった。
「この前、浅川君になぐられて、耳が聞えなくなった漁夫が来たので、何気なく診断書を書いてやったら、飛んでもないことになってしまってね。――それが何時までも証拠になるんで、浅川君にしちゃね……」
彼等
前へ
次へ
全14ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 多喜二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング