は船医の室を出ながら、船医もやはり其処まで行くと、もう「俺達」の味方でなかったことを考えていた。
その漁夫は、然《しか》し「不思議に」どうにか生命を取りとめることが出来た。その代り、日中でもよく何かにつまずいて、のめる程暗い隅《すみ》に転がったまま、その漁夫がうなっているのを、何日も何日も聞かされた。
彼が直りかけて、うめき声が皆を苦しめなくなった頃、前から寝たきりになっていた脚気の漁夫が死んでしまった。――二十七だった。東京、日暮里《にっぽり》の周施屋から来たもので、一緒の仲間が十人程いた。然し、監督は次の日の仕事に差支えると云うので、仕事に出ていない「病気のものだけ」で、「お通夜」をさせることにした。
湯灌《ゆかん》をしてやるために、着物を解いてやると、身体からは、胸がムカーッとする臭気がきた。そして無気味な真白い、平べったい虱《しらみ》が周章《あわ》ててゾロゾロと走り出した。鱗形《うろこがた》に垢《あか》のついた身体全体は、まるで松の幹が転がっているようだった。胸は、肋骨《ろっこつ》が一つ一つムキ出しに出ていた。脚気がひどくなってから、自由に歩けなかったので、小便などはその場でもらしたらしく、一面ひどい臭気だった。褌《ふんどし》もシャツも赭黒《あかぐろ》く色が変って、つまみ上げると、硫酸でもかけたように、ボロボロにくずれそうだった。臍《へそ》の窪《くぼ》みには、垢とゴミが一杯につまって、臍は見えなかった。肛門の周《まわ》りには、糞がすっかり乾いて、粘土のようにこびりついていた。
「カムサツカでは死にたくない」――彼は死ぬときそう云ったそうだった。然し、今彼が命を落すというとき、側にキット誰も看《み》てやった者がいなかったかも知れない。そのカムサツカでは誰だって死にきれないだろう。漁夫達はその時の彼の気持を考え、中には声をあげて泣いたものがいた。
湯灌に使うお湯を貰いにゆくと、コックが、「可哀相にな」と云った。「沢山持って行ってくれ。随分、身体が汚れてるべよ」
お湯を持ってくる途中、監督に会った。
「何処へゆくんだ」
「湯灌だよ」
と云うと、
「ぜいたく[#「ぜいたく」に傍点]に使うな」まだ何か云いたげにして通って行った。
帰ってきたとき、その漁夫は、「あの時位、いきなり後ろから彼奴《あいつ》の頭に、お湯をブッかけてやりたくなった時はなかった!」と云った。興奮して、身体をブルブル顫《ふる》わせた。
監督はしつこく廻ってきては、皆の様子を見て行った。――然し、皆は明日|居睡《いねむ》りをしても、のめりながら仕事をしても――例の「サボ」をやっても、皆で[#「皆で」に傍点]「お通夜」をしようということにした。そう決った。
八時頃になって、ようやく一通りの用意が出来、線香や蝋燭《ろうそく》をつけて、皆がその前に坐った。監督はとうとう来なかった。船長と船医が、それでも一時間位坐っていた。片言のように――切れ切れに、お経の文句を覚えていた漁夫が「それでいい、心が通じる」そう皆に云われて、お経をあげることになった。お経の間、シーンとしていた。誰か鼻をすすり上げている。終りに近くなるとそれが何人もに殖えて行った。
お経が終ると、一人々々焼香をした。それから坐を崩して、各々一かたまり、一かたまりになった。仲間の死んだことから、生きている――然し、よく考えてみればまるで危く生きている自分達のことに、それ等の話がなった。船長と船医が帰ってから、吃《ども》りの漁夫が線香とローソクの立っている死体の側のテーブルに出て行った。
「俺はお経は知らない。お経をあげて山田君の霊を慰めてやることは出来ない。然し僕はよく考えて、こう思うんです。山田君はどんなに死にたくなかったべか、とな。――イヤ、本当のことを云えば、どんなに殺されたくなかった[#「殺されたくなかった」に傍点]か、と。確に山田君は殺されたのです」
聞いている者達は、抑えられたように静かになった。
「では、誰が殺したか? ――云わなくたって分っているべよ! 僕はお経でもって、山田君の霊を慰めてやることは出来ない。然し僕等[#「僕等」に傍点]は、山田君を殺したものの仇《かたき》をとることによって、とることによって、山田君を慰めてやることが出来るのだ。――この事を、今こそ、山田君の霊に僕等は誓わなければならないと思う……」
船員達だった、一番先きに「そうだ」と云ったのは。
蟹の生ッ臭いにおいと人いきれのする「糞壺」の中に線香のかおりが、香水か何かのように、ただよった。九時になると、雑夫が帰って行った。疲れているので、居睡りをしているものは、石の入った俵のように、なかなか起き上らなかった。一寸すると、漁夫達も一人、二人と眠り込んでしまった。――波が出てきた。船が揺れる度《たび》に、ローソクの灯が消えそうに細くなり、又それが明るくなったりした。死体の顔の上にかけてある白木綿が除《と》れそうに動いた。ずった。そこだけを見ていると、ゾッとする不気味さを感じた。――サイドに、波が鳴り出した。
次の朝、八時過ぎまで一仕事をしてから、監督のきめた船員と漁夫だけ四人下へ降りて行った。お経を前の晩の漁夫に読んでもらってから、四人の外に、病気のもの三、四人で、麻袋に死体をつめた。麻袋は新しいものは沢山あったが、監督は、直ぐ[#「直ぐ」に傍点]海に投げるものに新らしいものを使うなんてぜいたく[#「ぜいたく」に傍点]だ、と云ってきかなかった。線香はもう船には用意がなかった。
「可哀相なもんだ。――これじゃ本当に死にたくなかったべよ」
なかなか曲らない腕を組合せながら、涙を麻袋の中に落した。
「駄目々々。涙をかけると……」
「何んとかして、函館まで持って帰られないものかな。……こら、顔をみれ、カムサツカのしやっこい[#「しやっこい」に傍点]水さ入りたくねえッて云ってるんでないか。――海さ投げられるなんて、頼りねえな……」
「同じ海でもカムサツカだ。冬になれば――九月過ぎれば、船一|艘《そう》も居なくなって、凍ってしまう海だで。北の北の端《はず》れの!」
「ん、ん」――泣いていた。「それによ、こうやって袋に入れるッて云うのに、たった六、七人でな。三、四百人もいるのによ!」
「俺達、死んでからも、碌《ろく》な目に合わないんだ……」
皆は半日でいいから休みにしてくれるように頼んだが、前の日から蟹の大漁で、許されなかった。「私事と公事を混同するな」監督にそう云われた。
監督が「糞壺」の天井から顔だけ出して、
「もういいか」ときいた。
仕方がなく彼等は「いい」と云った。
「じゃ、運ぶんだ」
「んでも、船長さんがその前に弔詞《ちょうじ》を読んでくれることになってるんだよ」
「船長オ? 弔詞イ? ――」嘲《あざ》けるように、「馬鹿! そんな悠長《ゆうちょう》なことしてれるか」
悠長なことはしていられなかった。蟹が甲板に山積みになって、ゴソゴソ爪で床をならしていた。
そして、どんどん運び出されて、鮭《さけ》か鱒《ます》の菰包《こもづつ》みのように無雑作に、船尾につけてある発動機に積み込まれた。
「いいか――?」
「よオ――し……」
発動機がバタバタ動き出した。船尾で水が掻《か》き廻されて、アブクが立った。
「じゃ……」
「じゃ」
「左様なら」
「淋《さび》しいけどな――我慢してな」低い声で云っている。
「じゃ、頼んだど!」
本船から、発動機に乗ったものに頼んだ。
「ん、ん、分った」
発動機は沖の方へ離れて行った。
「じゃ、な!……」
「行ってしまった。」
「麻袋の中で、行くのはイヤだ、イヤだってしてるようでな……眼に見えるようだ」
――漁夫が漁から帰ってきた。そして監督の「勝手な」処置をきいた。それを聞くと、怒る前に、自分が――屍体《したい》になった自分の身体が、底の暗いカムサツカの海に、そういうように蹴落《けおと》されでもしたように、ゾッとした。皆はもの[#「もの」に傍点]も云えず、そのままゾロゾロタラップを下りて行った。「分った、分った」口の中でブツブツ云いながら、塩ぬれ[#「塩ぬれ」に傍点]のドッたりした袢天《はんてん》を脱いだ。
八
表には何も出さない。気付かれないように手をゆるめて行く。監督がどんなに思いッ切り怒鳴り散らしても、タタキつけて歩いても、口答えもせず「おとなしく」している。それを一日置きに繰りかえす。(初めは、おっかなびっくり、おっかなびっくりでしていたが)――そういうようにして、「サボ」を続けた。水葬のことがあってから、モットその足並が揃《そろ》ってきた
仕事の高は眼の前で減って行った。
中年過ぎた漁夫は、働かされると、一番それが身にこたえるのに、「サボ」にはイヤな顔を見せた。然し内心(!)心配していたことが起らずに、不思議でならなかったが[#「不思議でならなかったが」に傍点]、かえって「サボ」が効《き》いてゆくのを見ると、若い漁夫達の云うように、動きかけてきた。
困ったのは、川崎の船頭だった。彼等は川崎のことでは全責任があり、監督と平漁夫の間に居り、「漁獲高」のことでは、すぐに監督に当って来られた。それで何よりつらかった。結局三分の一だけ「仕方なしに」漁夫の味方をして、後の三分の二は監督の小さい「出店」――その小さい「○」だった。
「それア疲れるさ。工場のようにキチン、キチンと仕事がきまってるわけには行かないんだ。相手は生き物だ。蟹が人間様に都合よく、時間々々に出てきてはくれないしな。仕方がないんだ」――そっくり監督の蓄音機だった。
こんなことがあった。――糞壺で、寝る前に、何かの話が思いがけなく色々の方へ移って行った。その時ひょいと、船頭が威張ったことを云ってしまった。それは別に威張ったことではないが、「平」漁夫にはムッときた。相手の平漁夫が、そして、少し酔っていた。
「何んだって?」いきなり怒鳴った。「手前《てめ》え、何んだ。あまり威張ったことを云わねえ方がええんだで。漁に出たとき、俺達四、五人でお前えを海の中さタタキ落す位朝飯前だんだ。――それッ切りだべよ。カムサツカだど。お前えがどうやって死んだって、誰が分るッて!」
そうは云ったものはいない。それをガラガラな大声でどなり立ててしまった。誰も何も云わない。今まで話していた外のことも、そこでプッつり切れてしまった。
然《しか》し、こういうようなことは、調子よく跳《は》ね上った空元気《からげんき》だけの言葉ではなかった。それは今まで「屈従」しか知らなかった漁夫を、全く思いがけずに背から、とてつもない力で突きのめした。突きのめされて、漁夫は初め戸惑いしたようにウロウロした。それが知られずにいた自分の力[#「自分の力」に傍点]だ、ということを知らずに。
――そんなことが「俺達に[#「俺達に」に傍点]」出来るんだろうか? 然し成る程出来るんだ。
そう分ると、今度は不思議な魅力になって、反抗的な気持が皆の心に喰い込んで行った。今まで、残酷極まる労働[#「残酷極まる労働」に傍点]で搾《しぼ》り抜かれていた事が、かえってその為にはこの上ない良い地盤だった。――こうなれば、監督も糞もあったものでない! 皆愉快がった。一旦この気持をつかむと、不意に、懐中電燈を差しつけられたように、自分達の蛆虫《うじむし》そのままの生活がアリアリと見えてきた。
「威張んな、この野郎」この言葉が皆の間で流行《はや》り出した。何かすると「威張んな、この野郎」と云った。別なことにでも、すぐそれを使った。――威張る野郎は、然し漁夫には一人もいなかった。
それと似たことが一度、二度となくある。その度《たび》毎に漁夫達は「分って」行った。そして、それが重なってゆくうちに、そんな事で漁夫達の中から何時《いつ》でも表の方へ押し出されてくる、きまった三、四人が出来てきた。それは誰かが決めたのでなく、本当は又、きまったのでもなかった。ただ、何か起ったり又しなければならなくなったりすると、その三、四人の意見が皆のと
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