をドライヴしながら考えている。――が、恐らく、それとカッキリ一分も違わない同じ時に、秩父丸の労働者が、何千|哩《マイル》も離れた北の暗い海で、割れた硝子屑《ガラスくず》のように鋭い波と風に向って、死の戦いを戦っているのだ!
 ……学生上りは「糞壺《くそつぼ》」の方へ、タラップを下りながら、考えていた。
「他人事《ひとごと》ではないぞ」
「糞壺」の梯子《はしご》を下りると、すぐ突き当りに、誤字沢山で、

[#ここから6字下げ、罫囲み]
雑夫、宮口を発見せるものには、バット二つ、手拭一本を、賞与としてくれるべし。
                  浅川監督。
[#ここで字下げ終わり]

 と、書いた紙が、糊代りに使った飯粒のボコボコを見せて、貼《は》らさってあった。

        三

 霧雨が何日も上らない。それでボカされたカムサツカの沿線が、するすると八ツ目|鰻《うなぎ》のように延びて見えた。
 沖合四|浬《かいり》のところに、博光丸が錨《いかり》を下ろした。――三浬までロシアの領海なので、それ以内に入ることは出来ない「ことになっていた」。
 網さばき[#「さばき」に傍点]が終って、何時《いつ》からでも蟹漁が出来るように準備が出来た。カムサツカの夜明けは二時頃なので、漁夫達はすっかり身支度をし、股《また》までのゴム靴をはいたまま、折箱の中に入って、ゴロ寝をした。
 周旋屋にだまされて、連れてこられた東京の学生上りは、こんな筈《はず》がなかった、とブツブツ云っていた。
「独《ひと》り寝だなんて、ウマイ事云いやがって!」
「ちげえねえ、独り寝さ。ゴロ寝だもの」
 学生は十七、八人来ていた。六十円を前借りすることに決めて、汽車賃、宿料、毛布、布団《ふとん》、それに周旋料を取られて、結局船へ来たときには、一人七、八円の借金(!)になっていた。それが始めて分ったとき、貨幣《かね》だと思って握っていたのが、枯葉であったより、もっと彼等はキョトンとしてしまった。――始め、彼等は青鬼、赤鬼の中に取り巻かれた亡者のように、漁夫の中に一かたまりに固《かたま》っていた。
 函館《はこだて》を出帆してから、四日目ころから、毎日のボロボロな飯と何時も同じ汁のために、学生は皆身体の工合を悪くしてしまった。寝床に入ってから、膝《ひざ》を立てて、お互に脛《すね》を指で押していた。何度も繰りかえして、その度《たび》に引っこんだとか、引っこまないとか、彼等の気持は瞬間明るくなったり、暗くなったりした。脛をなでてみると、弱い電気に触れるように、しびれるのが二、三人出てきた。棚《たな》の端から両足をブラ下げて、膝頭を手刀で打って、足が飛び上るか、どうかを試した。それに悪いことには、「通じ」が四日も五日も無くなっていた。学生の一人が医者に通じ薬を貰いに行った。帰ってきた学生は、興奮から青い顔をしていた。――「そんなぜいたく[#「ぜいたく」に傍点]な薬なんて無いとよ」
「んだべ。船医なんてん[#「ん」に傍点]なものよ」側《そば》で聞いていた古い漁夫が云った。
「何処《どこ》の医者も同じだよ。俺のいたところの会社の医者もん[#「ん」に傍点]だった」坑山の漁夫だった。
 皆がゴロゴロ横になっていたとき、監督が入ってきた。
「皆、寝たか――一寸《ちょっと》聞け。秩父丸が沈没したっていう無電が入ったんだ。生死の詳しいことは分らないそうだ」唇をゆがめて、唾《つば》をチェッとはいた。癖だった。
 学生は給仕からきいたことが、すぐ頭にきた。自分が現に手をかけて[#「手をかけて」に傍点]殺した四、五百人の労働者の生命のことを、平気な顔で云う、海にタタキ込んでやっても足りない奴だ、と思った。皆はムクムクと頭をあげた。急に、ザワザワお互に話し出した。浅川はそれだけ云うと、左肩だけを前の方に振って、出て行った。
 行衛《ゆくえ》の分らなかった雑夫が、二日前にボイラーの側から出てきたところをつかまった。二日隠れていたけれども、腹が減って、腹が減って、どうにも出来ず、出て来たのだった。捕《つか》んだのは中年過ぎの漁夫だった。若い漁夫がその漁夫をなぐりつけると云って、怒った。
「うるさい奴だ、煙草のみでもないのに、煙草の味が分るか」バットを二個手に入れた漁夫はうまそうに飲んでいた。
 雑夫は監督にシャツ一枚にされると、二つあるうちの一つの方の便所に押し込まれて、表から錠を下ろされた。初め、皆は便所へ行くのを嫌った。隣りで泣きわめく声が、とても聞いていられなかった。二日目にはその声がかすれて、ヒエ、ヒエしていた。そして、そのわめきが間を置くようになった。その日の終り頃に、仕事を終った漁夫が、気掛りで直《す》ぐ便所のところへ行ったが、もうドアーを内側から叩《たた》きつける音もしていなかった。こっちから合図をしても、それが返って来なかった。――その遅く、睾隠《きんかく》しに片手をもたれかけて、便所紙の箱に頭を入れ、うつぶせに倒れていた宮口が、出されてきた。唇の色が青インキをつけたように、ハッキリ死んでいた。
 朝は寒かった。明るくなってはいたが、まだ三時だった。かじかんだ手を懐《ふところ》につッこみながら、背を円るくして起き上ってきた。監督は雑夫や漁夫、水夫、火夫の室まで見廻って歩いて、風邪《かぜ》をひいているものも、病気のものも、かまわず引きずり出した。
 風は無かったが、甲板で仕事をしていると、手と足の先きが擂粉木《すりこぎ》のように感覚が無くなった。雑夫長が大声で悪態をつきながら、十四、五人の雑夫を工場に追い込んでいた。彼の持っている竹の先きには皮がついていた。それは工場で怠《なま》けているものを機械の枠越《わくご》しに、向う側でもなぐりつけることが出来るように、造られていた。
「昨夜《ゆうべ》出されたきりで、もの[#「もの」に傍点]も云えない宮口を今朝からどうしても働かさなけアならないって、さっき足で蹴《け》ってるんだよ」
 学生上りになじんでいる弱々しい身体の雑夫が、雑夫長の顔を見い、見いそのことを知らせた。
「どうしても動かないんで、とうとうあきらめたらしいんだけど」
 其処《そこ》へ、監督が身体をワクワクふるわせている雑夫を後からグイ、グイ突きながら、押して来た。寒い雨に濡《ぬ》れながら仕事をさせられたために、その雑夫は風邪をひき、それから肋膜《ろくまく》を悪くしていた。寒くないときでも、始終身体をふるわしていた。子供らしくない皺《しわ》を眉《まゆ》の間に刻んで、血の気のない薄い唇を妙にゆがめて、疳《かん》のピリピリしているような眼差《まなざ》しをしていた。彼が寒さに堪えられなくなって、ボイラーの室にウロウロしていたところを、見付けられたのだった。
 出漁のために、川崎船をウインチから降していた漁夫達は、その二人を何も云えず、見送っていた。四十位の漁夫は、見ていられないという風に、顔をそむけると、イヤイヤをするように頭をゆるく二、三度振った。
「風邪をひいてもらったり、不貞寝《ふてね》をされてもらったりするために、高い金払って連れて来たんじゃないんだぜ。――馬鹿野郎、余計なものを見なくたっていい!」
 監督が甲板を棍棒《こんぼう》で叩いた。
「監獄だって、これより悪かったら、お目にかからないで!」
「こんなこと内地《くに》さ帰って、なんぼ話したって本当にしねんだ」
「んさ。――こったら事って第一あるか」
 スティムでウインチがガラガラ廻わり出した。川崎船は身体を空にゆすりながら、一斉に降り始めた。水夫や火夫も狩り立てられて、甲板のすべる足元に気を配りながら、走り廻っていた。それ等のなかを、監督は鶏冠《とさか》を立てた牡鶏《おんどり》のように見廻った。
 仕事の切れ目が出来たので、学生上りが一寸の間風を避けて、荷物のかげに腰を下していると、炭山《やま》から来た漁夫が口のまわりに両手を円く囲んで、ハア、ハア息をかけながら、ひょいと角を曲ってきた。
「生命《えのぢ》的《まと》だな!」それが――心からフイと出た実感が思わず学生の胸を衝《つ》いた。「やっぱし炭山と変らないで、死ぬ思いばしないと、生《え》きられないなんてな。――瓦斯《ガス》も恐《お》ッかねど、波もおっかねしな」
 昼過ぎから、空の模様がどこか変ってきた。薄い海霧《ガス》が一面に――然《しか》しそうでないと云われれば、そうとも思われる程、淡くかかった。波は風呂敷でもつまみ上げたように、無数に三角形に騒ぎ立った。風が急にマストを鳴らして吹いて行った。荷物にかけてあるズックの覆《おお》いの裾《すそ》がバタバタとデッキをたたいた。
「兎が飛ぶどオ――兎が!」誰か大声で叫んで、右舷のデッキを走って行った。その声が強い風にすぐちぎり取られて、意味のない叫び声のように聞こえた。
 もう海一面、三角波の頂きが白いしぶき[#「しぶき」に傍点]を飛ばして、無数の兎があたかも大平原を飛び上っているようだった。――それがカムサツカの「突風」の前ブレ[#「前ブレ」に傍点]だった。にわかに底潮の流れが早くなってくる。船が横に身体をずらし始めた。今まで右舷に見えていたカムサツカが、分らないうちに左舷になっていた。――船に居残って仕事をしていた漁夫や水夫は急に周章《あわ》て出した。
 すぐ頭の上で、警笛が鳴り出した。皆は立ち止ったまま、空を仰いだ。すぐ下にいるせいか、斜め後に突き出ている、思わない程太い、湯桶《ゆおけ》のような煙突が、ユキユキと揺れていた。その煙突の腹の独逸《ドイツ》帽のようなホイッスルから鳴る警笛が、荒れ狂っている暴風の中で、何か悲壮に聞えた。――遠く本船をはなれて、漁に出ている川崎船が絶え間なく鳴らされているこの警笛を頼りに、時化《しけ》をおかして帰って来るのだった。
 薄暗い機関室への降り口で、漁夫と水夫が固り合って騒いでいた。斜め上から、船の動揺の度に、チラチラ薄い光の束が洩《も》れていた。興奮した漁夫の色々な顔が、瞬間々々、浮き出て、消えた。
「どうした?」坑夫がその中に入り込んだ。
「浅川の野郎ば、なぐり殺すんだ!」殺気だっていた。
 監督は実は今朝早く、本船から十哩ほど離れたところに碇《とま》っていた××丸から「突風」の警戒報を受取っていた。それには若《も》し川崎船が出ていたら、至急呼戻すようにさえ附け加えていた。その時、「こんな事に一々ビク、ビクしていたら、このカムサツカまでワザワザ来て仕事なんか出来るかい」――そう浅川の云ったことが、無線係から洩れた。
 それを聞いた最初の漁夫は、無線係が浅川ででもあるように、怒鳴りつけた。「人間の命を何んだって思ってやがるんだ!」
「人間の命?」
「そうよ」
「ところが、浅川はお前達をどだい人間だなんて思っていないよ」
 何か云おうとした漁夫は吃《ども》ってしまった。彼は真赤になった。そして皆のところへかけ込んできたのだった。
 皆は暗い顔に、然し争われず底からジリ、ジリ来る興奮をうかべて、立ちつくしていた。父親が川崎船で出ている雑夫が、漁夫達の集っている輪の外をオドオドしていた。ステイが絶え間なしに鳴っていた。頭の上で鳴るそれを聞いていると、漁夫の心はギリ、ギリと切り苛《さ》いなまれた。
 夕方近く、ブリッジから大きな叫声が起った。下にいた者達はタラップの段を二つ置き位にかけ上った。――川崎船が二隻近づいてきたのだった。二隻はお互にロープを渡して結び合っていた。
 それは間近に来ていた。然し大きな波は、川崎船と本船を、ガタンコの両端にのせたように、交互に激しく揺り上げたり、揺り下げたりした。次ぎ、次ぎと、二つの間に波の大きなうねりがもり上って、ローリングした。目の前にいて、中々近付かない。――歯がゆかった。甲板からはロープが投げられた。が、とどかなかった。それは無駄なしぶきを散らして、海へ落ちた。そしてロープは海蛇のように、たぐり寄せられた。それが何度もくり返された。こっちからは皆声をそろえて呼んだ。が、それには答えなかった。漁夫達の顔の表情はマスクのように化石して、動か
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