、片側の壁に片手をつきながら、危い足取りで帰ってきた酔払いが、通りすがりに、赤黒くプクンとしている女の頬《ほっ》ぺたをつッついた。
「何んだね」
「怒んなよ。――この女子《あねこ》ば抱いて寝てやるべよ」
 そう云って、女におどけた恰好をした。皆が笑った。
「おい饅頭《まんじゅう》、饅頭!」
 ずウと隅《すみ》の方から誰か大声で叫んだ。
「ハアイ……」こんな処ではめずらしい女のよく通る澄んだ声で返事をした。「幾《なん》ぼですか?」
「幾《なん》ぼ? 二つもあったら不具《かたわ》だべよ。――お饅頭、お饅頭!」――急にワッと笑い声が起った。
「この前、竹田って男が、あの沖売の女ば無理矢理に誰もいねえどこさ引っ張り込んで行ったんだとよ。んだけ、面白いんでないか。何んぼ、どうやっても駄目だって云うんだ……」酔った若い男だった。「……猿又《さるまた》はいてるんだとよ。竹田がいきなりそれを力一杯にさき取ってしまったんだども、まだ下にはいてるッて云うんでねか。――三枚もはいてたとよ……」男が頸《くび》を縮めて笑い出した。
 その男は冬の間はゴム靴会社の職工だった。春になり仕事が無くなると、カムサツカへ出稼《でかせ》ぎに出た。どっちの仕事も「季節労働」なので、(北海道の仕事は殆《ほと》んどそれだった)イザ夜業となると、ブッ続けに続けられた。「もう三年も生きれたら有難い」と云っていた。粗製ゴムのような、死んだ色の膚をしていた。
 漁夫の仲間には、北海道の奥地の開墾地や、鉄道敷設の土工部屋へ「蛸《たこ》」に売られたことのあるものや、各地を食いつめた「渡り者」や、酒だけ飲めば何もかもなく、ただそれでいいものなどがいた。青森辺の善良な村長さんに選ばれてきた「何も知らない」「木の根ッこのように」正直な百姓もその中に交っている。――そして、こういうてんでんばらばら[#「てんでんばらばら」に傍点]のもの等を集めることが、雇うものにとって、この上なく都合のいいことだった。(函館の労働組合は蟹工船、カムサツカ行の漁夫のなかに組織者を入れることに死物狂いになっていた。青森、秋田の組合などとも連絡をとって。――それを何より恐れていた[#「それを何より恐れていた」に傍点])
 糊《のり》のついた真白い、上衣《うわぎ》の丈《たけ》の短い服を着た給仕《ボーイ》が、「とも」のサロンに、ビール、果物、洋酒のコップを持って、忙しく往き来していた。サロンには、「会社のオッかない人、船長、監督、それにカムサツカで警備の任に当る駆逐艦の御大《おんたい》、水上警察の署長さん、海員組合の折鞄《おりかばん》」がいた。
「畜生、ガブガブ飲むったら、ありゃしない」――給仕はふくれかえっていた。
 漁夫の「穴」に、浜なす[#「浜なす」に傍点]のような電気がついた。煙草の煙や人いきれ[#「いきれ」に傍点]で、空気が濁って、臭く、穴全体がそのまま「糞壺《くそつぼ》」だった。区切られた寝床にゴロゴロしている人間が、蛆虫《うじむし》のようにうごめいて見えた。――漁業監督を先頭に、船長、工場代表、雑夫長がハッチを下りて入って来た。船長は先のハネ上っている髭《ひげ》を気にして、始終ハンカチで上唇を撫《な》でつけた。通路には、林檎やバナナの皮、グジョグジョした高丈《たかじょう》、鞋《わらじ》、飯粒のこびりついている薄皮などが捨ててあった。流れの止った泥溝《どぶ》だった。監督はじろり[#「じろり」に傍点]それを見ながら、無遠慮に唾をはいた。――どれも飲んで来たらしく、顔を赤くしていた。
「一寸《ちょっと》云って置く」監督が土方の棒頭《ぼうがしら》のように頑丈《がんじょう》な身体で、片足を寝床の仕切りの上にかけて、楊子《ようじ》で口をモグモグさせながら、時々歯にはさまったものを、トットッと飛ばして、口を切った。
「分ってるものもあるだろうが、云うまでもなくこの蟹工船の事業は、ただ単にだ、一会社の儲仕事《もうけしごと》と見るべきではなくて、国際上の一大問題なのだ。我々が――我々日本帝国人民が偉いか、露助が偉いか。一騎打ちの戦いなんだ。それに若《も》し、若しもだ。そんな事は絶対にあるべき筈《はず》がないが、負けるようなことがあったら、睾丸《きんたま》をブラ下げた日本男児は腹でも切って、カムサツカの海の中にブチ落ちることだ。身体が小さくたって、野呂間な露助に負けてたまるもんじゃない。
「それに、我カムサツカの漁業は蟹罐詰ばかりでなく、鮭《さけ》、鱒《ます》と共に、国際的に云ってだ、他の国とは比らべもならない優秀な地位を保っており、又日本国内の行き詰った人口問題、食糧問題に対して、重大な使命を持っているのだ。こんな事をしゃべったって、お前等には分りもしないだろうが、ともかくだ、日本帝国の大きな使命のために、俺達は命を的に、北海の荒波をつッ切って行くのだということを知ってて貰わにゃならない。だからこそ、あっちへ行っても始終我帝国の軍艦が我々を守っていてくれることになっているのだ。……それを今|流行《はや》りの露助の真似《まね》をして、飛んでもないことをケシ[#「ケシ」に傍点]かけるものがあるとしたら、それこそ、取りも直さず日本帝国を売るものだ。こんな事は無い筈だが、よッく覚えておいて貰うことにする……」
 監督は酔いざめのくさめ[#「くさめ」に傍点]を何度もした。

 酔払った駆逐艦の御大[#「御大」に傍点]はバネ仕掛の人形のようなギクシャクした足取りで、待たしてあるランチに乗るために、タラップを下りて行った。水兵が上と下から、カントン袋に入れた石ころみたいな艦長を抱えて、殆んど持てあましてしまった。手を振ったり、足をふんばったり、勝手なことをわめく艦長のために、水兵は何度も真正面《まとも》から自分の顔に「唾」を吹きかけられた。
「表じゃ、何んとか、かんとか偉いこと云ってこの態《ざま》なんだ」
 艦長をのせてしまって、一人がタラップのおどり場からロープを外しながら、ちらっと艦長の方を見て、低い声で云った。
「やっちまうか※[#感嘆符疑問符、1−8−78]……」
 二人は一寸息をのんだ、が……声を合せて笑い出した。

        二

 祝津《しゅくつ》の燈台が、廻転する度にキラッキラッと光るのが、ずウと遠い右手に、一面灰色の海のような海霧《ガス》の中から見えた。それが他方へ廻転してゆくとき、何か神秘的に、長く、遠く白銀色の光茫《こうぼう》を何|海浬《かいり》もサッと引いた。
 留萌《るもい》の沖あたりから、細い、ジュクジュクした雨が降り出してきた。漁夫や雑夫は蟹の鋏《はさみ》のようにかじかんだ手を時々はすがいに懐《ふところ》の中につッこんだり、口のあたりを両手で円《ま》るく囲んで、ハアーと息をかけたりして働かなければならなかった。――納豆の糸のような雨がしきりなしに、それと同じ色の不透明な海に降った。が、稚内《わっかない》に近くなるに従って、雨が粒々になって来、広い海の面が旗でもなびくように、うねりが出て来て、そして又それが細かく、せわしなくなった。――風がマストに当ると不吉に鳴った。鋲《びょう》がゆるみでもするように、ギイギイと船の何処かが、しきりなしにきし[#「きし」に傍点]んだ。宗谷海峡に入った時は、三千|噸《トン》に近いこの船が、しゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]にでも取りつかれたように、ギク、シャクし出した。何か素晴しい力でグイと持ち上げられる。船が一瞬間宙に浮かぶ。――が、ぐウ[#「ぐウ」に傍点]と元の位置に沈む。エレヴエターで下りる瞬間の、小便がもれそうになる、くすぐったい不快さをその度《たび》に感じた。雑夫は黄色になえて、船酔らしく眼だけとんがらせて、ゲエ、ゲエしていた。
 波のしぶきで曇った円るい舷窓《げんそう》から、ひょいひょいと樺太《からふと》の、雪のある山並の堅い線が見えた。然《しか》しすぐそれはガラスの外へ、アルプスの氷山のようにモリモリとむくれ上ってくる波に隠されてしまう。寒々とした深い谷が出来る。それが見る見る近付いてくると、窓のところへドッと打ち当り、砕けて、ザアー……と泡立つ。そして、そのまま後へ、後へ、窓をすべって、パノラマのように流れてゆく。船は時々子供がするように、身体を揺《ゆす》った。棚からもの[#「もの」に傍点]が落ちる音や、ギ――イと何かたわむ[#「たわむ」に傍点]音や、波に横ッ腹がドブ――ンと打ち当る音がした。――その間中、機関室からは機関の音が色々な器具を伝って、直接《じか》に少しの震動を伴ってドッ、ドッ、ドッ……と響いていた。時々波の背に乗ると、スクリュが空廻りをして、翼で水の表面をたたきつけた。
 風は益々強くなってくるばかりだった。二本のマストは釣竿《つりざお》のようにたわんで、ビュウビュウ泣き出した。波は丸太棒の上でも一またぎする位の無雑作で、船の片側から他の側へ暴力団のようにあばれ込んできて、流れ出て行った。その瞬間、出口がザアーと滝になった。
 見る見るもり上った山の、恐ろしく大きな斜面に玩具《おもちゃ》の船程に、ちょこんと横にのッかることがあった。と、船はのめったように、ドッ、ドッと、その谷底へ落ちこんでゆく。今にも、沈む! が、谷底にはすぐ別な波がむくむくと起《た》ち上ってきて、ドシンと船の横腹と体当りをする。
 オホツック海へ出ると、海の色がハッキリもっと灰色がかって来た。着物の上からゾクゾクと寒さが刺し込んできて、雑夫は皆唇をブシ色にして仕事をした。寒くなればなる程、塩のように乾いた、細かい雪がビュウ、ビュウ吹きつのってきた。それは硝子《ガラス》の細かいカケラのように甲板に這《は》いつくばって働いている雑夫や漁夫の顔や手に突きささった。波が一波甲板を洗って行った後は、すぐ凍えて、デラデラに滑《すべ》った。皆はデッキからデッキへロープを張り、それに各自がおしめ[#「おしめ」に傍点]のようにブラ下り、作業をしなければならなかった。――監督は鮭殺しの棍棒《こんぼう》をもって、大声で怒鳴り散らした。
 同時に函館を出帆した他の蟹工船は、何時の間にか離れ離れになってしまっていた。それでも思いっ切りアルプスの絶頂に乗り上ったとき、溺死者《できししゃ》が両手を振っているように、揺られに揺られている二本のマストだけが遠くに見えることがあった。煙草の煙ほどの煙が、波とすれずれに吹きちぎられて、飛んでいた。……波浪と叫喚のなかから、確かにその船が鳴らしているらしい汽笛が、間を置いてヒュウ、ヒュウと聞えた。が、次の瞬間、こっちがアプ、アプでもするように、谷底に転落して行った。
 蟹工船には川崎船を八隻のせていた。船員も漁夫もそれを何千匹の鱶《ふか》のように、白い歯をむいてくる波にもぎ[#「もぎ」に傍点]取られないように、縛りつけるために、自分等の命を「安々」と賭《か》けなければならなかった。――「貴様等の一人、二人が何んだ。川崎一|艘《ぱい》取られてみろ、たまったもんでないんだ」――監督は日本語[#「日本語」に傍点]でハッキリそういった。
 カムサツカの海は、よくも来やがった、と待ちかまえていたように見えた。ガツ、ガツに飢えている獅子《しし》のように、えどなみかかってきた。船はまるで兎《うさぎ》より、もっと弱々しかった。空一面の吹雪は、風の工合で、白い大きな旗がなびくように見えた。夜近くなってきた。しかし時化《しけ》は止みそうもなかった。
 仕事が終ると、皆は「糞壺」の中へ順々に入り込んできた。手や足は大根のように冷えて、感覚なく身体についていた。皆は蚕のように、各※[#二の字点、1−2−22]の棚の中に入ってしまうと、誰も一口も口をきくものがいなかった。ゴロリ横になって、鉄の支柱につかまった。船は、背に食いついている虻《あぶ》を追払う馬のように、身体をヤケ[#「ヤケ」に傍点]に振っている。漁夫はあてのない視線を白ペンキが黄色に煤《すす》けた天井にやったり、殆《ほと》んど海の中に入りッ切りになっている青黒い円窓にやったり……中には、呆《ほお》けたように
前へ 次へ
全14ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 多喜二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング