は、口を三角形にゆがめると、背のびでもするように哄笑《こうしょう》した。
これ以上北航しても、川崎船を発見する当がなかった。第三十六号川崎船の引上げで、足ぶみ[#「ぶみ」に傍点]をしていた船は、元の位置に戻るために、ゆるく、大きくカーヴをし始めた。空は晴れ上って、洗われた後のように澄んでいた。カムサツカの連峰が絵葉書で見るスイッツルの山々のように、くっきりと輝いていた。
行衛不明になった川崎船は帰らない。漁夫達は、そこだけが水|溜《たま》りのようにポツンと空いた棚から、残して行った彼等の荷物や、家族のいる住所をしらべたり、それぞれ万一の時に直ぐ処置が出来るように取り纏《まと》めた。――気持のいいことではなかった。それをしていると、漁夫達は、まるで自分の痛い何処かを、覗《のぞ》きこまれているようなつらさ[#「つらさ」に傍点]を感じた。中積船が来たら托送《たくそう》しようと、同じ苗字《みょうじ》の女名前がその宛《あて》先きになっている小包や手紙が、彼等の荷物の中から出てきた。そのうちの一人の荷物の中から、片仮名と平仮名の交った、鉛筆をなめり、なめり書いた手紙が出た。それが無骨な漁夫の手から、手へ渡されて行った。彼等は豆粒でも拾うように、ボツリ、ボツリ、然《しか》しむさぼるように、それを読んでしまうと、嫌《いや》なものを見てしまったという風に頭をふって、次ぎに渡してやった。――子供からの手紙だった。
ぐずりと鼻をならして、手紙から顔を上げると、カスカスした低い声で、「浅川のためだ。死んだと分ったら、弔い合戦をやるんだ」と云った。その男は図体の大きい、北海道の奥地で色々なこと[#「こと」に傍点]をやってきたという男だった。もっと低い声で、
「奴、一人位タタキ落せるべよ」若い、肩のもり上った漁夫が云った。
「あ、この手紙いけねえ。すっかり思い出してしまった」
「なア」最初のが云った。「うっかりしていれば、俺達だって奴にやられたんだで。他人《ひと》ごとでねえんだど」
隅《すみ》の方で、立膝《たてひざ》をして、拇指《おやゆび》の爪《つめ》をかみながら、上眼をつかって、皆の云うのを聞いていた男が、その時、うん、うんと頭をふって、うなずいた。「万事、俺にまかせれ、その時ア! あの野郎一人グイとやってしまうから」
皆はだまった。――だまったまま、然し、ホッとした。
博光丸が元の位置に帰ってから、三日して突然(!)その行衛不明になった川崎船が、しかも元気よく帰ってきた。
彼等は船長室から「糞壺」に帰ってくると、忽《たちま》ち皆に、渦巻のように取巻かれてしまった。
――彼等は「大暴風雨」のために、一たまりもなく操縦の自由をなくしてしまった。そうなればもう襟首《えりくび》をつかまれた子供より他愛なかった。一番遠くに出ていたし、それに風の工合も丁度反対の方向だった。皆は死ぬことを覚悟した。漁夫は何時でも「安々と」死ぬ覚悟をすることに「慣らされて」いた。
が(!)こんなことは滅多にあるものではない。次の朝、川崎船は半分水船になったまま、カムサツカの岸に打ち上げられていた。そして皆は近所のロシア人に救われたのだった。
そのロシア人の家族は四人暮しだった。女がいたり、子供がいたりする「家」というものに渇していた彼等にとって、其処《そこ》は何とも云えなく魅力だった。それに親切な人達ばかりで、色々と進んで世話をしてくれた。然し、初め皆はやっぱり、分らない言葉を云ったり、髪の毛や眼の色の異《ちが》う外国人であるということが無気味だった。
何アんだ、俺達と同じ人間ではないか、ということが、然し直ぐ分らさった。
難破のことが知れると、村の人達が沢山集ってきた。そこは日本の漁場などがある所とは、余程離れていた。
彼等は其処に二日いて、身体を直し、そして帰ってきたのだった。「帰ってきたくはなかった」誰が、こんな地獄に帰りたいって! が、彼等の話は、それだけで終ってはいない。「面白いこと」がその外にかくされていた。
丁度帰る日だった。彼等がストオヴの周《まわ》りで、身仕度をしながら話をしていると、ロシア人が四、五人入ってきた。――中に支那人が一人交っていた。――顔が巨《おおき》くて、赤い、短い鬚《ひげ》の多い、少し猫背の男が、いきなり何か大声で手振りをして話し出した。船頭は、自分達がロシア語は分らないのだという事を知らせるために、眼の前で手を振って見せた。ロシア人が一句切り云うと、その口元を見ていた支那人は日本語をしゃべり出した。それは聞いている方の頭が、かえってごじゃごじゃ[#「ごじゃごじゃ」に傍点]になってしまうような、順序の狂った日本語だった。言葉と言葉が酔払いのように、散り散りによろめいていた。
「貴方《あなた》方、金キット持っていない
前へ
次へ
全35ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小林 多喜二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング