四日になり、十日になる、然しこれは、そんな風に單純に算えてしまふ事が出來ない長さ――無限の長さのやうに思はれた。渡や工藤や鈴本などはそれでもさういふ場所の「退屈」に少しは慣れてゐた。然し又、たとひ同じやうに慣れてゐないとしても、龍吉や佐多にくらべて、太い、荒い神經を持つてゐたので、よりそれには堪え得た。殊に佐多は慘めに參つてしまつた。
佐多の入つてゐた處は渡のところから、さう離れてはゐなかつた。夜になり、佐多は身體の置き處もなく、話もなく、イラ/\するのにも中毒して、半分「バカ」になつたやうに放心してゐると、幾つにも扉をさえぎられた向う、から、低く、
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夜でも 晝で――エも
牢屋は暗い。
いつでも 鬼めが
窓からのぞく。
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歌ふのが聞えてきた。渡が歌つてゐるのだ。立番の巡査もさう干渉しなくなつてゐるらしかつた。
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のぞことまゝよ、
自由はとらはれ、
×はとけず。
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一番後の「×はとけず」の一聯に、渡らしい底のある力を入れて歌つてゐるのが分つた。そこだけを何度も、必ず繰り返して歌つた。彼には渡の氣持が直接《ぢか》に胸にくる氣がした。
佐多には、それが何時でも待たれる樂しみだつた。きまつて夕暮だつた。佐多は何時もなら、そんな歌は彼がよく輕蔑して云ふ言葉で「民衆藝術」と片付けてしまつたものだつた。それがガラリと變つてしまつた。然し又歌でなくても、外を歩く人の單純なカラ/\といふ音、雪道のギユン/\となる音、さういふものにも、よく聞いてみて複雜な階調のあるのを初めて知つたり、何處からか分らないボソ/\した話聲に不思議な音樂的なデリケートなニユウアンスを感じたりした。天井に雪が降る微かにサラ/\する音に一時間も――二時間も聞き入つた。すると、それに色々な幻想が入り交り、彼の心を退屈から救つてくれた。彼は何も要らなかつた。「音」が欲しかつた[#「欲しかつた」は底本では「欲しがつた」]。彼の心が少しでもまだ「生物」である證據として、動くことがあるとすれば、それは「音」に對してだけだつた。一緒にゐる不良少年の女をひつかける話や、浮浪者の慘めな生活などは、何時もならキツト佐多の興味をひいた。が、それは二三日すると、もう嫌になつてしまつてゐた。
小樽の一つの名物として「廣告屋」がゐた。それは市内商店の依頼を受けると、道化の恰好をして、辻々に立ち、滑稽な調子で、その廣告の口上を云ふ。それに太鼓や笛が加はる。――それが一度留置場の外の近所でやつた。拍子木が凍えた空氣にヒヾでも入るやうに、透徹した[#「透徹した」は底本では「透轍した」]響を傳えると、道化した調子の口上が聞えた。
スワツ※[#感嘆符二つ、1−8−75] それは文字通り「スワツ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」だつた。留置場の中の全部は「城取り」でもするやうに、小さい、四角な高い處につけてある窓に向つて殺到した。遲れたものは、前のものゝ背に反動をつけて飛び乘つた。そして、その後へも同じやうに外のものが。――「音」には佐多ばかりではなかつたのだ!
彼は夜、何遍も母の夢を見た。殊に母が面會に來た日の夜、ウツラ/\寢ると母の夢を見、又寢ると母の夢を見………それが朝迄何回も續いた。
「お前やせたねえ。顏色がよくないよ。」
面會に來た母が彼の顏を見ると、見たゞけで息をつまらしてさう云つた。
「お前が早く出てきてくれるやうにツて、佛樣に毎日お願ひしてるよ。」母が皺くちやの汚れたハンカチを出して、顏を覆つた。母の「佛樣」と云ふのは死んだ父の事だつた。奇麗好きな母が、こんなにハンカチを汚してゐることが彼の胸をついた。母は然し、何時ものやうにワケも分らない事をクド/\云つて、すゝり上げた。彼は外方を向いてゐた。その合間に、彼の着物の襟の折れてゐるのを、手をのべて直してくれた。彼はぎこちなく首を曲げて、ぢつとしてゐた。[#「ゐた。」は底本では「ゐた」]母の匂ひを直接に顏に感じた。
留置場に歸つて、母の差入れてくれたものを解いてみた。色々なものゝ中に交つて、紫色した小さい角瓶の眼藥が出てきた。佐多が家にゐたとき、何時でも眠る前に眼藥を差す習慣があつた。
「やつぱりお母アさ。面會はお母アか?」隣りで、着物を解くのを見てゐた不良少年が、それを見て口を入れた。「俺にだつて、お母アはゐるんだよ。」
佐多はそれから四五日して警察を出された。
彼は、自分でも自分が分らない氣持で外へ出た。――だが、確かに、それは外だつた。明るい雪に「輝いて[#「「輝いて」はママ]ゐる外にちがひなかつた。彼は外へ出た瞬間目まひを感じた。とにかく「外」だ!○○の家がある。××屋がある。×××橋がある。どれも皆見覺えがある。空、そして電信柱、犬! 犬までが本當にゐる。子供、人、「自由に」歩いてゐる人達、何より自由に!
あゝ、とう/\この世の中に歸つてきた!
彼は其處を通つてゐる人に、男でも、女でも、子供にでも何か話しかけ、笑ひかけ走り廻りたい衝動を感じた。それはそして少しの誇張さへもない氣持だつた。彼は自分の胸をワク/\と搖ぶつて、底から出てくる喜びをどうする事も出來なかつた。「とう/\、とう/\出てきた!」彼は思はず泣き出した。泣き出すと、後から、後からと心臟の鼓動のやうに、ドキを打つて涙があふれてきた。彼は、道を歩いてゐる人が立ち止つて彼の方を不審に見てゐるのもかまはずに、聲を出して、しやくり[#「しやくり」に傍点]上げた。彼は何も考へなかつた。自分以外の[#「自分以外の」に傍点]誰のことも、何も! そんな餘裕がなかつた。
「とう/\出た! とう/\※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
――佐多が出たといふ事が一人から一人へ、各監房にゐるものに傳つて行つた。[#「行つた。」は底本では「行つた」]
渡は別にどういふ感じもそれに對しては起さなかつた。何も好きこのんで監房にたゝき込まれてゐる必要はないのだから、よかつたとは思つた。彼は佐多をあまり知らなかつた。同じ運動にゐても、會社員――インテリゲンチヤといふものと、矢張り膚が合はなかつた。別にイヤではなかつた。無關心でゐた、と云つてよかつた。
然し工藤は、龍吉などゝ同じやうに、かういふインテリゲンチヤがどし/\運動の中に入つてきて、自分達の持てない色々の方面の知識で、ともすれば經驗の少ない向ふ見ずな一本調子になり易い自分達の運動に、厚さと深さとを加へなければならない、と思つてゐた。勿論佐多などには、それらしい多くの缺點はあるにしても、裏にゐてもらつて、その都度――彼でなければならない役に、役立つて貰へればよかつた。殊に工藤は、この方面にはまだ/\自分達が澤山の事をしなければならないものゝある事を考へてゐた。
× × ×
取調べは××の氣狂ひじみた方法で、こゝには書き切れない(それだけで一册の本となすかも知れない)色々な慘虐な稗話[#「稗話」はママ]を作つて、ドシ/\進んで行つた。そして「事實」の確定したものは、札幌の裁判所へ順繰りに送られて、豫審へ廻はされた。
護送される前に、それ/″\の取調べに當つた司法主任や特高は自腹(?)を切つて、皆に丼や壽司などを取り寄せて御馳走した。自分も一緒に食ひながら、急に、接木をしたやうな親しみを皆に見せた。
「とにかくさ、」――話のついでに(ついでに?)輕くはさんだ。「とにかく、こゝで取調べられた時に云つた通りの事を云へばいゝのさ。話がちがつたりすると、結局君等の不眞面目な態度が問題になつて、不利だからなあ……。」
そして世間話をしながら、又何氣ない調子で、その同じ事を繰り返した。
「こんなに奢つていゝのか。」意味をちアんと知つてゐる渡や工藤や鈴本はひやかした。
「分つた。分つた。何も云はない。その通りさ。」笑談半分に何度もうなづいて見せた。
初めての齋藤や石田は、變な顏をして御馳走をうけた。變だなあ、さうは思ふが、それが特高や主任の「手」であることは分らなかつた。彼等は、自分達の手で作りあげた取調書が豫審でガラリと覆へるやうなことがあると「首」が危くなつたり、「覺え」が目出度なくなり、昇進や出世に大きく關係したからだつた。その事情をすつかりつかんでゐる渡などは逆に利用して、札幌へ行く途中、付添の特高にねだつて、停車場で辨當や饅頭を買つてもらつた。
「可哀相に、あまりせびる[#「せびる」に傍点]なよ。」特高の方で、そんな風に云ひ出すやうになつた。
四月××日迄には××警察に抑留されてゐた全部が札幌へ護送されて行つてしまつた。急に署内がガランとした。壁の樂書だけが、人の居ない室に目立つた。皆を入れて置いた壁には申し合せたやうに、次の文句が殆んどちがひなく、入念に刻みこまれてゐた。
[#ここから3字下げ]
××××××××××
××× ××!
××××××××せよ
×××××××。
一九二八、三、一五!
田中反動内閣×××!
××× ××
勞働農民黨 萬歳
萬國の勞働者 團結せよ
××××を覺えてろ。
××××を忘れるな
勞働者と農民××××××!
××××× ××!
[#ここで字下げ終わり]
[#地から11字上げ](完)
[#地から3字上げ]――(一九二八・八・一七)――
底本:一〜四「戰旗 昭和三年十一月号」全日本無産者藝術聯盟本部
1928(昭和3)年11月1日発行
五〜九「戰旗 昭和三年十二月号」全日本無産者藝術聯盟本部
1928(昭和3)年12月1日発行
初出:一〜四「戰旗 昭和三年十一月号」全日本無産者藝術聯盟本部
1928(昭和3)年11月1日発行
五〜九「戰旗 昭和三年十二月号」全日本無産者藝術聯盟本部
1928(昭和3)年12月1日発行
※「戰旗 昭和三年十二月号」における表題は、「一九二八年三月一五日」です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※注記については、「一九二八年三月十五日・東倶知安行」新日本出版社(1994(平成6)年11月30日初版)を参照し、最小限にとどめました。
入力:林 幸雄
校正:富田倫生
2008年12月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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