ゝゐた。
 母はオロ/\した樣子で父に何か話しかけた。
「お互に話してもらつては困る。」次の間から、折鞄がピタリと釘を打つた。
 又幸子の寢てゐる室が暗くなつた。ドヤドヤと澤山の足音が亂れて、土間に降りたつてゐる。――表の戸が開いた。一寸そこで足音が澱むと、何か話聲が聞えた。幸子がたまらなくなつて、寢卷のまゝ起き立つた。ブル、ブルンと一瞬間で頭から足の爪先まで寒氣がきた。襖を細目に開けて覗いた。――父は上り端に腰を下して、かゞんで靴の紐を結んでゐた。よその人は土間につゝ立つてゐる。母はやつぱり胸に手をあてたまゝ、柱に自分の身體を支えて、青白い顏をしてゐる。變な沈默だつた。
 不圖――不圖幸子は分つた氣がした。それもすつかり分つた氣がした。「レーニンだ!」と思つた。これ等のことが皆レーニンから來てゐることだ、それに氣付いた。色々な本の澤山ある父の勉強室に、何枚も貼りつけられてゐる寫眞のレーニンの顏が、アリ/\と幸子に見えた。それは、あの頭の禿げた學校の吉田といふ小使さんと、そつくりの顏だつた。そして、それに――組合の人達がくる度に、父と一緒に色々な歌をうたつた。幸子は然し、子供の歌に對する敏感さから、大人達の誰よりも早く「×旗の歌」や「メーデイの歌」を覺えてしまつた。幸子は學校でも家でも「からたちの唄」や「カナリヤの歌」なぞと一緒に、その歌を意味も分らずに、何處ででも歌つた。それで、何度も幸子は組合の人から頭を撫てもらつた。――父は決して惡い人でないし、惡いこともする筈がない。幸子には、だからそれは矢張り「レーニン」と「×旗の歌」のせいだとしか思へない氣がした。――さうだ、確かにそれしかない。
 父が立ち上つた。――幸子は火事の夜のやうに、齒をカタ/\いはせてゐた。――皆外へ出た。母の青い顏がその時動いた。唇も何か云ふやうに動いたやうだつた。が、言葉が出なかつた。出たかも知れないが、幸子には聞えなかつた。母の、身體を支えてゐる柱の手先きに、力が入つてゐるのが分つた。――父は一寸帽子をかぶり直し、母の顏を見た。それから、チヨツキのボタンの一つかゝつてゐたのを外し、それを又かけ直した。落付きなく又母の顏を見た。――父の身體が半分戸の外へ出た。
「幸《ゆき》を氣付けろ…………。」
 かすれた乾いた聲で云ふと、父は無理に出したやうな咳をした。
 母は後から續いて外へ出た。
 幸子は寢床に走り入ると、うつ伏せになつて、そのまゝ枕に顏をあてゝ泣き出した。幸子は泣きながら、急に父を連れて行つたよその人[#「よその人」に傍点]が憎くなつた。「憎いのはあいつ等だ、あいつ等だ。」と思つた。さう思ふと、なほ悲しくて泣けた。幸子は恐ろしさに顫えながら、今度も[#「今度も」はママ]「お父さん」「お父さん」と、父を叫びながら、心一杯に泣いた。

         二

 空氣が空間を充たしてゐるそのまゝの形で、青白く凍えてしまつてゐるやうだつた。何の音もしないし、人影もなかつた。――夜が更けてゐた。ヂリ/\と寒氣が骨まで透みこんでくる。午前三時だつた。
 カリ/\に雪が凍つてゐる道に、五六人の足音が急に起つた。それは薄暗い小路からだつた。靜まりかへつてゐる街に、その足音が案外高く響きかへつた。電柱に裸の電燈がともつてゐる少し廣い道に、足音が出てきた。――顎紐をかけた警官だつた。サアベルの音がしないやうに、片手でそれを握つてゐた。
 ドカ/\ツと、靴のまゝ(!)警官が合同勞働組合の二階に、一齊にかけ上つた。
 組合員は一時間程前に寢たばかりだつた。十五日は反動的なサアベル内閣の打倒演説會を開くことに決めてゐた。その晩は、全員を動員して宣傳ビラを市内中に貼らせたり、館の交渉をしたり、それに常任委員會があつたり――やうやく二時になつて、一先づ片付いたのだつた。そこをやられた。
 七八人の組合員は、いきなり掛蒲團を剥ぎとられると、靴で×られて跳ね起きた。皆が丸太棒のやうにムツクリと起き上ると、見當を失つて身體をよろつかせ、うろ/\した。
 鈴本は、しまつた! と思つた。彼は實は、或は[#「或は」に傍点]と思つてゐた。言論の自由は完全に奪はれてゐる、そこへ持つてきて、無理にねぢ込んで、御本尊――田中内閣の打倒運動をやらうとする、××がその當日になつて、中止々々で辯士を將棋倒しにするのは分り切つてゐるし、覺悟はしてゐたが、その前に[#「その前に」に傍点]或ひは(野×達のことだ!)總檢束でもしないか、よくやりたがる手だ、さう思つてゐた、それが來たんだ、――瞬間さう鈴本は思つた。
「組合のドンキ」で通つてゐる阪西が[#「阪西が」は底本では「坂西が」]、猿又一つで、
「何かあるのか。」と、顏なじみのスパイに訊いた。
「分らんよ。」
「分らん? 馬鹿にするなよ。――睡いんだぜ。」
 續いて上つてきた和服が片つ端から、書類を調べ始めた。
「貴樣等、こんな處にゴロ/\してるから碌な[#「碌な」は底本では「録な」]ことをしねえ事になるんだ。」
 巡査が横着な恰好に構えてゐる「關羽」そつくりの鈴本をぢろり、ぢろり見ながら、毒ツぽい調子で皆に聞えるやうに、はき出した。鈴本はそんなものにからかつてはゐられなかつた。
「働いてみろ、つまらん考へなんか無くなるから。」
 ――獨りでしやべれ、誰が相手になつてゐられるもんか!
「一つ世話して貰らひたいもんです。」
 阪西は何時もの人の好い笑ひ聲をして、茶[#「茶」に傍点]を入れた。――組合の連中は阪西を足りない事にしてゐた。何處へもつて行つても、つぶしがきかないし、仕事がルーズだつた。然しその人のよさが憎めない魅力をもつてゐた。
 その時、渡が周章てゝ階段をかけ降りやうとした。が、巡査がすぐその前に立つてしまつた。「何處へ行くんだ。」
 鈴本はその渡の態度を見て、おや、と思つた。渡はその態度ばかりでなしに、顏の色がちつとも無かつた。普段若手として、何時でも一番先頭に立つて働いてゐる、がつしりした、「鐵板」みたいな渡が、渡らしくない! 鈴本は變な豫感を渡に對して感じた。
 皆は前と後と兩側を巡査に守られながら、階段をゾロ/\降りた。然し渡を除くと皆元氣だつた。かういふ事には慣れてゐた。一つ、二つ平手が飛んだ。
 普段何かすると、すぐ「我々は戰鬪的でなければならない。」と、誰れ彼れの差別なく振りまはして歩く齋藤は、然し矢張り一番元氣だつた。彼が鈴本のところへ寄つてくると、
「明日の演説會《あれ》に差支えるから、我ん張らう。」
「うん、やる必要がある。」
 齋藤が、そして何か云はうとした。
「オイ/\ツ! 」いきなり齋藤の後首に警官が手をかけると、こづき廻はすやうにして、鈴本から離して別な方へ引張つて行つた。

[#ここから3字下げ]
民衆の旗、×旗は…………
[#ここで字下げ終わり]

 前の方で、誰か突然歌ひ出した。――、ピシリ、といふ平手の音がした。
「何んだ、この野郎!」身體でもつて、つツかゝつて行くの聲だつた。サーベルで×××つける音が、平手打ちの音に交つて聞えた。
 皆は前と後と、すつかり腕をつなぎ合はせてゐた。ワザと強く足ぶみをして歩いた。
「うるせえツよ!」齋藤が、小さい身體一杯に叫んで、立ち止つてしまつた。「おい、皆、わけも分らないで引つ張られてゆくのは反對だ。なアツ! 一つ訊くんだ。」
「んだ、んだ!」皆それに賛成した。
 鈴本は渡だけに眼をつけてゐた。何時でもかういふ時には、彈んだバネのやうに、一緒にはぢけ上る渡が、棒杭のやうにつツ立つてゐる。――警官は小さい齋藤のまはりをぐるりと取卷いてしまつた。外の組合員は、警官の肩と肩の間に自分の肩を楔形に割り込ませやうとした。その身體と身體のモミ合ひが、そこに小さい渦卷きを起した。
「馬鹿野郎、理由を云れ!」
「行けば分る。」――こゝでも、これだ。
「行けば分るで、一々臭え處さ引張られて行《え》つてたまるか。」
「人權蹂躙だ!」後からも叫んだ。
 ××の一人が齋藤をなぐりつけたらしかつた。人の輪が急に大きく搖れた。握りこぶしを固めた組合員が輪の外から、それを乘り越さうと、あせつた。それで急に騷ぎが大きくなつた。
「貴樣等は!……貴樣等はな!」口を何かで抑へられて無理に出してゐる齋藤の聲が、切れ、切れに聞えた。――「貴樣等が、いくらこつたら事したつて、この運動が………な、無くなるとでも……畜生、無くなるとでも思つてるのか! 糞ツ!」
 皆は興奮して、ワツと聲をあげた。
 何かに氣をとられた形でゐた渡が、この時肩巾の廣い、がつしりした身體で、その渦の中に割り込んで行つた。それを見ると、鈴本は、何んでもなかつたのか、さう思つてホツとした。
「正當な理由が無えうち、俺達この全部の力にかけて、行くこと反對だ!」かすれた、底のある低い[#「低い」は底本では「底い」]聲で云つた。渡の低い聲は皆に對して何時も不思議に大きな力を持つてゐた。
 渦卷きから離れて立つてゐた石田は、空元氣を出して騷いでゐる組合員を、何時ものやうに苦々しく思ひ、だまつて見てゐた。石田は騷ぐ時と、さうでない時――さうあつてはならない時がある、と思つてゐる。この事をよくわきまへて、さうする事は、何も非戰鬪的なことであるとは思へなかつた。齋藤などは、石田には狂犬病患者であると、しか考へられなかつた。石田はこの運動をしてゐるものに、殊に「齋藤型」の多いのを知つてゐる。それ等を見ると、石田は何時でも顏をそむけた。それ等には「小兒病」と、人間らしい侮蔑語を使ふのさへ勿體なかつた。「こんな時に、それが何んになる。フン、勇敢な無産階級の鬪士だ。」――石田は自分の周圍に唾をはくと、靴の爪先きでそれを床にこすりつけた。
 渡が出て、皆の結束ががつしりした。――と、その時、入口からもう七八人の巡査がどや/\ツと突入してきた。それで、結束はその力で一もみにもみ潰されてしまつた。皆は大きな渦卷きになつて、表へ、入口の戸をシリ/\させ、もみ出た。
 戸の外からは、剃刀の刄のやうな寒氣がすべり込んできた。夜明けに近く、冷えるにいいだけ冷えきつた、零下二十度の空氣だつた。それに皆は寢起きすぐの身體なので、その寒さが殊にブルン/\とこたえた。皆は顎と肩に力を入れて、ふるえをこらえた。
 夜はまだ薄明りもしてゐなかつた。雪を含んだ暗い空の下で、街は地の底からジーンと靜まりかへつてゐた。歩くと、雪道は何かものでも毀れる時のやうにカリツ/\と鳴つた。垢でべタ/\になつてゐるシヤツをコールテン地の服の下に着てゐた石田や齋藤は、直接《ぢか》に膚へ寒さを感じた。皮膚全體が痛んできた。そして、しばらくすると、手先きや爪先きが感覺なく、しびれてくるのを覺えた。
 皆は一人々々警官に腕を組れて外へ出た。
 一週間程前に組合に入つたばかりの[#「ばかりの」は底本では「ぱかりの」]、まだ二十にならない柴田は初めつから一言も、ものを云へず、變にひきつツた顏をしてゐた。彼は皆がどなる時、それでも、それについて自分でもさうしやうと[#「「しやうと]は底本では「しやと」]努めた。が、半分乾きかけた粘土のやうになつてゐる頬は、ピクピクと動いたきり、いふことをきかなかつた。彼は、何時でもかういふ事には、これから打ち當る、だから早く慣れきつてしまつて置かなければならない、さう思つてゐた。今、然し初めての柴田にはやつぱりそれはドシンと體當りに當つてきた。彼はひとたまりもなく、投げ出された形だつた。彼は寒さからではなしに、身體がふるえ、ふるえ――齒のカタ/\するのを、どうしても止められなかつた。
 皆は灰色の一かたまりにかたまつて、街の通りを、通りから通りへ歩いて行つた。寒さを防ぐために、お互に身體をすり合せ、もみ合せ、足にワザと力を入れて踏んだ。ひつそりしてゐる通りに、二十人の歩く靴音がザツク、ザツク……と、響いて行つた。
 組合の者達は妙にグツと押し默つてゐた。さうしてゐるうちに、皆には然し、不思議に一つの同じ氣持が動いて行つた。インクに浸たされた紙のやうに、みる/\それが皆の氣
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