お由の手は、自分の身體には不釣合に大きく蟹のはさみのやうに、兩肩にブラ下つてゐた。皮膚は樹の根のやうにザラ/\して、汚れが眞黒に染み込んでゐた。それは、もう、一生取れないだらう。子供が背中をかゆがると、お由は爪でなくて、そのザラした[#「ザラした」はママ]掌で何時も撫でゝやつた。それだけで子供は掻かれたよりも氣持よがつた。
 お由はその長い間の自分の生活から、身をもつて「憎くて、憎くてたまらない人間」を、ハツキリと知つてゐた。殊に夫が組合に入り、運動をするやうになつてから、それ等のことが、もつとはつきりした形でお由の頭に入つてきた。
 工藤は組合の仕事で一週間も家へ歸れない事が何度もあつた。お由は自分で――自分一人で働いて、子供のことまでしてゆかなければならなかつた。が、今迄とは異つた氣持で、お由は仕事が出來た。お由は濱へ出て石炭擔ぎをやつたり、倉庫で澱粉や雜穀の袋縫ひをしたり、輸出青豌豆の手撰工場へ行つたりした。末の子が腹にゐたとき、十ヶ月の大きな腹をして、炭俵を艀から倉庫へ擔いだ[#「擔いだ」は底本では「擔いた」]。
 家の障子は骨ばかりになつた。寒い風が吹き込むやうになつても、然し障子紙など買ふ金がなかつたので、組合から「無産者新聞」や「勞働農民新聞」の古いのを貰つてきて、それを貼つた。煽動的なストライキの記事とか、大きな「火」のやうな見出しが斜めになつたり、倒になつたり、半分隱れたりして貼られた。お由は暇な時、ボツリ、ボツリそれを讀んでゐた。子供から「これ何アに、あれ何アに」と聞れるたびに、それを讀んできかせた。家の壁には選擧の時に使ひ餘つたポスター、ビラ、雜誌の廣告などをべた/\貼りつけた。渡や鈴本が工藤の家にやつてくると「ほオ!」と何度もグル/\見廻はつて歩いて、「我等の家[#「我等の家」に傍点]」だなんて云つて、喜んだ。
 ……工藤は起き上ると、身仕度をした。身支度をしながら、工藤は今度は長くなると思つた。さうなれば、一錢も殘つてゐない一家がその間、どうして暮して行くか、それが重く、じめ/\と心にのし[#「のし」に傍点]かゝつてきた。これは、こんな場合、何時でも同じやうに感ずる氣持だつた。然し何度感じやうが、組合で皆と一緒に興奮してゐる時はいゝ、然しさうでない時、子供や妻の生活を思ひ、やり切れなく胸をしめつけられた。
 お由は手傳つて、用意をしてやると、
「ぢや、行つといで。」と云つた。
「ウム。」
「今度は何んだの。當てがある?」
 彼は默つてゐた。が、
「どうだ、やつて行けるか。長くなるかも知れないど。」
「後?――大丈夫。」
 お由は何時もの明るい、元氣のいゝ調子で云つた。
 漠然ではあるが、何のことか分つてゐる一番上の子供が、
「お父《どう》、行《え》つてお出《え》で。」と云つた。
「こんな家へくると、とてもたまつたもんでない。」警官が驚いた。「まるで當り前のことみたいに、一家そろつて行つてお出で、だと!」
「こんな事で一々泣いたり、ほえたりしてゐた日にや、俺達の運動なんか出來るもんでないよ。」
 工藤は暗い、ジメ/\さを取り除くために、毒ツぽく云ひ返した。
「この野郎、要らねえ事をしやべると、たゝきのめすぞ。」
 警官が變に息をはづませて、どなつた。
 彼は妻に何か云ひ殘して行きたいと思つた。然し口の重い彼は、どう云つていゝか一寸分らなかつた。妻が又苦勞するのか、と思ふと、(勿論それは自分の妻だけではないが、)膝のあたりから、妙に力が拔ける感じがした。
「本當、どうにかやつて行けるから。」
 お由は夫の顏を見て、もう一度さう云つた。夫はだまつて、うなづいた。
 戸がしまつた。お由は皆の外を行く足音を、しばらく立つてきいてゐた。
 自分達の社會が來る迄、こんな事[#「こんな事」に傍点]が何百遍あつたとしても、足りない事をお由は知つてゐた。さういふ社會を來させるために、自分達は次に來る者達の「踏臺」になつて、××××にならなければならないかも知れない。蟻の大軍が移住をする時、前方に渡らなければならない河があると、先頭の方の蟻がドシ/\川に入つて、重り合つて溺死し後から來る者をその自分達の屍を橋に渡してやる、といふことを聞いた事があつた。その先頭の蟻こそ自分達でなければならない、組合の若い人達がよくその話をした。そしてそれこそ必要なことだつた。
「まだ、まだねえ!」
 さうお由がお惠に云つた。
 お惠は半ば[#「半ば」は底本では「半ぱ」]暗い顏をしながら、然し興奮してお由にうなづいてみせた。

         四

 今度の檢擧が案外廣い範圍に渡つてゐることをお惠はお由から知らされた。××鐵工場の職工が仕事場から、ナツパ服のまゝ連れて行かれたり、濱の自由勞働者や倉庫の勞働者が毎日五人、十人と取調べに引か
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