ひでゝ寒さも知らぬ泉にぞ汲むとはなしに日ごろ經にける」。
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五日、けふ辛くして和泉の灘より小津のとまりをおふ。松原めもはるばるなり。かれこれ苦しければ詠めるうた、
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「ゆけどなほ行きやられぬはいもがうむをつの浦なるきしの松原」。
[#ここで字下げ終わり]
かくいひつゞくる程に「船疾くこげ、日のよきに」と催せば※[#「楫+戈」、第3水準1−86−21]取船子どもにいはく「御船より仰せたぶなり。あさぎたの出で來ぬさきに綱手はやひけ」といふ。この詞の歌のやうなるは※[#「楫+戈」、第3水準1−86−21]取のおのづからの詞なり。※[#「楫+戈」、第3水準1−86−21]取はうつたへにわれ歌のやうなる事いふとにもあらず。聞く人の「あやしく歌めきてもいひつるかな」とて書き出せればげに三十文字あまりなりけり。今日浪なたちそと、人々ひねもすに祈るしるしありて風浪たゝず。今し鴎むれ居てあそぶ所あり。京のちかづくよろこびのあまりにある童のよめる歌、
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「いのりくる風間と思ふをあやなくに鴎さへだになみと見ゆらむ」
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といひて行く間に、石津といふ所の松原おもしろくて濱邊遠し。又住吉のわたりを漕ぎ行く。ある人の詠める歌、
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「今見てぞ身をば知りぬる住のえの松よりさきにわれは經にけり」。
[#ここで字下げ終わり]
こゝにむかしつ人の母、一日片時も忘れねばよめる、
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「住の江に船さしよせよわすれ草しるしありやとつみて行くべく」
[#ここで字下げ終わり]
となむ。うつたへに忘れなむとにはあらで、戀しき心ちしばしやすめて又も戀ふる力にせむとなるべし。かくいひて眺めつゞくるあひだに、ゆくりなく風吹きてこげどもこげどもしりへしぞきにしぞきてほとほとしくうちはめつべし。※[#「楫+戈」、第3水準1−86−21]取のいはく「この住吉の明神は例の神ぞかし。ほしきものぞおはすらむ」とは今めくものか。さて「幣をたてまつり給へ」といふにしたがひてぬさたいまつる。かくたいまつれどももはら風やまで、いや吹きにいや立ちに風浪の危ふければ※[#「楫+戈」、第3水準1−86−21]取又いはく「幣には御心のいかねば御船も行かぬなり。猶うれしと思ひたぶべき物たいまつりたべ」といふ。又いふに從ひて「いかゞはせむ」とて「眼もこそ二つあれ。ただ一つある鏡をたいまつる」とて海にうちはめつればいとくちをし。さればうちつけに海は鏡のごとなりぬれば、或人のよめるうた、
[#ここから1字下げ]
「ちはやぶる神のこゝろのあるゝ海に鏡を入れてかつ見つるかな」。
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いたく住の江の忘草、岸の姫松などいふ神にはあらずかし。目もうつらうつら鏡に神の心をこそは見つれ。※[#「楫+戈」、第3水準1−86−21]取の心は神の御心なりけり。
六日、澪標のもとより出でゝ難波につ(二字のつをイ)きて河尻に入る。みな人々女おきなひたひに手をあてゝ喜ぶこと二つなし。かの船醉の淡路の島のおほい子、都近くなりぬといふを喜びて、船底より頭をもたげてかくぞいへる、
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「いつしかといぶせかりつる難波がた蘆こぎそけて御船きにけり」。
[#ここで字下げ終わり]
いとおもひの外なる人のいへれば、人々あやしがる。これが中に心ちなやむ船君いたくめでゝ「船醉したうべりし御顏には似ずもあるかな」といひける。
七日、けふは川尻に船入り立ちて漕ぎのぼるに、川の水ひて惱みわづらふ。船ののぼることいと難し。かゝる間に船君の病者もとよりこちごちしき人にて、かうやうの事更に知らざりけり。かゝれども淡路のたうめの歌にめでゝ、みやこぼこりにもやあらむ、からくしてあやしき歌ひねり出せり。そのうたは、
[#ここから1字下げ]
「きときては川のほりえの水をあさみ船も我が身もなづむけふかな」。
[#ここで字下げ終わり]
これは病をすればよめるなるべし。ひとうたにことの飽かねば今ひとつ、
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「とくと思ふ船なやますは我がために水のこゝろのあさきなりけり(るべしイ)」。
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この歌は、みやこ近くなりぬるよろこびに堪へずして言へるなるべし。淡路の御の歌におとれり。ねたき、いはざらましものをとくやしがるうちによるになりて寢にけり。
八日、なほ川のほとりになづみて、鳥養の御牧といふほとりにとまる。こよひ船君例の病起りていたく惱む。ある人あさらかなる物もてきたり。よねしてかへりごとす。男ども密にいふなり「いひぼしてもてる」とや。かうやうの事所々にあり。今日節みすればいをもちゐず。
九日、心もとなさに明けぬから船をひきつゝのぼれども川の水なければゐざりにのみゐざる。この間に和田の泊りのあかれのところといふ所あり。よねいをなどこへばおこなひ(三字くりイ)つ。かくて船ひきのぼるに渚の院といふ所を見つゝ行く。その院むかしを思ひやりて見れば、おもしろかりける所なり。しりへなる岡には松の木どもあり。中の庭には梅の花さけり。こゝに人々のいはく「これむかし名高く聞えたる所なり。故惟喬のみこのおほん供に故在原の業平の中將の「世の中に絶えて櫻のさかざらは春のこゝろはのどけからまし」といふ歌よめる所なりけり。今興ある人所に似たる歌よめり、
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「千代へたる松にはあれどいにしへの聲の寒さはかはらざりけり」。
[#ここで字下げ終わり]
又ある人のよめる、
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「君戀ひて世をふる宿のうめの花むかしの香かにぞなほにほひける」
[#ここで字下げ終わり]
といひつゝぞ都のちかづくを悦びつゝのぼる。かくのぼる人々のなかに京よりくだりし時に、皆人子どもなかりき。いたれりし國にてぞ子生める者どもありあへる。みな人船のとまる所に子を抱きつゝおりのりす。これを見て昔の子の母かなしきに堪へずして、
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「なかりしもありつゝ歸る人の子をありしもなくてくるが悲しさ」
[#ここで字下げ終わり]
といひてぞ泣きける。父もこれを聞きていかゞあらむ。かうやうの事ども歌もこのむとてあるにもあらざるべし。もろこしもこゝも思ふことに堪へぬ時のわざとか。こよひ宇土野といふ所にとまる。
十日、さはることありてのぼらず。
十一日、雨いさゝか降りてやみぬ。かくてさしのぼるに東のかたに山のよこをれるを見て人に問へば「八幡の宮」といふ。これを聞きてよろこびて人々をがみ奉る。山崎の橋見ゆ。嬉しきこと限りなし。こゝに相應寺のほとりに、しばし船をとゞめてとかく定むる事あり。この寺の岸のほとりに柳多くあり。ある人この柳のかげの川の底にうつれるを見てよめる歌、
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「さゞれ浪よするあやをば青柳のかげのいとして織るかとぞ見る」
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十二日、山崎にとまれり。
十三日、なほ山崎に。
十四日、雨ふる。けふ車京へとりにやる。
十五日、今日車ゐてきたれり。船のむつかしさに船より人の家にうつる。この人の家よろこべるやうにてあるじしたり。このあるじの又あるじのよきを見るに、うたておもほゆ。いろいろにかへりごとす。家の人のいで入りにくげならずゐやゝかなり。
十六日、けふのようさりつかた京へのぼるついでに見れば、山崎の小櫃の繪もまがりのおほちの形もかはらざりけり。「賣る人の心をぞ知らぬ」とぞいふなる。かくて京へ行くに島坂にて人あるじしたり。必ずしもあるまじきわざなり。立ちてゆきし時よりはくる時ぞ人はとかくありける。これにも(それにもイ有)かへりごとす。よるになして京にはいらむと思へば、急ぎしもせぬ程に月いでぬ。桂川月あかきにぞわたる。人々のいはく「この川飛鳥川にあらねば、淵瀬更にかはらざりけり」といひてある人のよめる歌、
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「ひさかたの月におひたるかつら川そこなる影もかはらざりけり」。
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又ある人のいへる、
「あまぐものはるかなりつる桂川そでをひでゝもわたりぬるかな」。
[#ここで字下げ終わり]
又ある人よめる、
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「桂川わがこゝろにもかよはねどおなじふかさはながるべらなり」。
[#ここで字下げ終わり]
みやこのうれしきあまりに歌もあまりぞおほかる。夜更けてくれば所々も見えず。京に入り立ちてうれし。家にいたりて門に入るに、月あかければいとよくありさま見ゆ。聞きしよりもましていふかひなくぞこぼれ破れたる。家を預けたりつる人の心も荒れたるなりけり。中垣こそあれ、ひとつ家のやうなればのぞみて預れるなり。さるはたよりごとに物も絶えず得させたり。こよひかゝることゝ聲高にものもいはせず、いとはつらく見ゆれど志をばせむとす。さて池めいてくぼまり水づける所あり。ほとりに松もありき。五年六年のうちに千年や過ぎにけむ、かた枝はなくなりにけり。いま生ひたるぞまじれる。大かたの皆あれにたれば、「あはれ」とぞ人々いふ。思ひ出でぬ事なく思ひ戀しきがうちに、この家にて生れし女子のもろともに歸らねばいかゞはかなしき。船人も皆子(いイ有)だかりてのゝしる。かゝるうちに猶かなしきに堪へずして密に心知れる人といへりけるうた、
[#ここから1字下げ]
「うまれしもかへらぬものを我がやどに小松のあるを見るがかなしさ」
[#ここで字下げ終わり]
とぞいへる。猶あかずやあらむ、またかくなむ、
[#ここから1字下げ]
「見し人の松のちとせにみましかばとほくかなしきわかれせましや」。
[#ここで字下げ終わり]
わすれがたくくちをしきことおほかれどえつくさず。とまれかくまれ疾くやりてむ。
底本:「國文大觀 日記草子部」明文社
1906(明治39)年1月30日初版発行
1909(明治42)年10月12日再版発行
※このファイルは、日本文学等テキストファイル(http://www.let.osaka−u.ac.jp/~okajima/bungaku.htm)で公開されたものを、青空文庫形式にあらためて作成しました。
※校正には、「國文大觀 日記草子部」板倉屋書房、1903(明治36)年10月27日発行を使用しました。
※割り注を()に入れました。
※「現在通行字体の〈し〉」「志に由来する変体仮名」ともに、「し」で入力しました。
※「楫」と「※[#「楫+戈」、第3水準1−86−21]」の混在については底本通りにしました。
※監修者、編纂者の没年は以下の通りです。
監修者 本居豊穎 (1913(大正2)年2月15日没)
同 木村正辭 (1913(大正2)年4月10日没)
同 小杉榲邨 (1910(明治43)年3月30日没)
同 井上頼圀 (1914(大正3)年7月3日没)
同 故落合直文 (1903(明治36)年12月16日没)
編纂者 丸岡 桂 (1919(大正8)年2月12日没)
同 松下大三郎(1935(昭和10)年5月2日没)
松下以外の没年月日は講談社学術文庫『大日本人名辞書』による。
松下の没年月日は徳田正信『近代文法図説』(明治書院)による。
編纂者等の著作権は消失している。
入力:岡島昭浩
校正:小林繁雄
2004年7月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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