に和田の泊りのあかれのところといふ所あり。よねいをなどこへばおこなひ(三字くりイ)つ。かくて船ひきのぼるに渚の院といふ所を見つゝ行く。その院むかしを思ひやりて見れば、おもしろかりける所なり。しりへなる岡には松の木どもあり。中の庭には梅の花さけり。こゝに人々のいはく「これむかし名高く聞えたる所なり。故惟喬のみこのおほん供に故在原の業平の中將の「世の中に絶えて櫻のさかざらは春のこゝろはのどけからまし」といふ歌よめる所なりけり。今興ある人所に似たる歌よめり、
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「千代へたる松にはあれどいにしへの聲の寒さはかはらざりけり」。
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又ある人のよめる、
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「君戀ひて世をふる宿のうめの花むかしの香かにぞなほにほひける」
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といひつゝぞ都のちかづくを悦びつゝのぼる。かくのぼる人々のなかに京よりくだりし時に、皆人子どもなかりき。いたれりし國にてぞ子生める者どもありあへる。みな人船のとまる所に子を抱きつゝおりのりす。これを見て昔の子の母かなしきに堪へずして、
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「なかりしもありつゝ歸る人の子をありしもなくてくるが悲しさ」
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といひてぞ泣きける。父もこれを聞きていかゞあらむ。かうやうの事ども歌もこのむとてあるにもあらざるべし。もろこしもこゝも思ふことに堪へぬ時のわざとか。こよひ宇土野といふ所にとまる。
十日、さはることありてのぼらず。
十一日、雨いさゝか降りてやみぬ。かくてさしのぼるに東のかたに山のよこをれるを見て人に問へば「八幡の宮」といふ。これを聞きてよろこびて人々をがみ奉る。山崎の橋見ゆ。嬉しきこと限りなし。こゝに相應寺のほとりに、しばし船をとゞめてとかく定むる事あり。この寺の岸のほとりに柳多くあり。ある人この柳のかげの川の底にうつれるを見てよめる歌、
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「さゞれ浪よするあやをば青柳のかげのいとして織るかとぞ見る」
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十二日、山崎にとまれり。
十三日、なほ山崎に。
十四日、雨ふる。けふ車京へとりにやる。
十五日、今日車ゐてきたれり。船のむつかしさに船より人の家にうつる。この人の家よろこべるやうにてあるじしたり。このあるじの又あるじのよきを見るに、うたておもほゆ。いろいろにかへりごとす。家の人のいで入りにくげならずゐやゝかなり。
十六日、けふのようさりつかた京へのぼるついでに見れば、山崎の小櫃の繪もまがりのおほちの形もかはらざりけり。「賣る人の心をぞ知らぬ」とぞいふなる。かくて京へ行くに島坂にて人あるじしたり。必ずしもあるまじきわざなり。立ちてゆきし時よりはくる時ぞ人はとかくありける。これにも(それにもイ有)かへりごとす。よるになして京にはいらむと思へば、急ぎしもせぬ程に月いでぬ。桂川月あかきにぞわたる。人々のいはく「この川飛鳥川にあらねば、淵瀬更にかはらざりけり」といひてある人のよめる歌、
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「ひさかたの月におひたるかつら川そこなる影もかはらざりけり」。
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又ある人のいへる、
「あまぐものはるかなりつる桂川そでをひでゝもわたりぬるかな」。
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又ある人よめる、
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「桂川わがこゝろにもかよはねどおなじふかさはながるべらなり」。
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みやこのうれしきあまりに歌もあまりぞおほかる。夜更けてくれば所々も見えず。京に入り立ちてうれし。家にいたりて門に入るに、月あかければいとよくありさま見ゆ。聞きしよりもましていふかひなくぞこぼれ破れたる。家を預けたりつる人の心も荒れたるなりけり。中垣こそあれ、ひとつ家のやうなればのぞみて預れるなり。さるはたよりごとに物も絶えず得させたり。こよひかゝることゝ聲高にものもいはせず、いとはつらく見ゆれど志をばせむとす。さて池めいてくぼまり水づける所あり。ほとりに松もありき。五年六年のうちに千年や過ぎにけむ、かた枝はなくなりにけり。いま生ひたるぞまじれる。大かたの皆あれにたれば、「あはれ」とぞ人々いふ。思ひ出でぬ事なく思ひ戀しきがうちに、この家にて生れし女子のもろともに歸らねばいかゞはかなしき。船人も皆子(いイ有)だかりてのゝしる。かゝるうちに猶かなしきに堪へずして密に心知れる人といへりけるうた、
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「うまれしもかへらぬものを我がやどに小松のあるを見るがかなしさ」
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とぞいへる。猶あかずやあらむ、またかくなむ、
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「見し人の松のちとせにみましかばとほくかなしきわかれせましや」。
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わすれがたくくちをしきことおほかれどえつくさず。とまれかくまれ疾くや
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