田中貢太郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)李汾《りふん》は

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]が啼いて
−−

 李汾《りふん》は山水が好きで四明山《しめいざん》にいた。山の下に張という大百姓の家があって、たくさんの豕《ぶた》などを飼ってあった。永和の末であった。ちょうど秋の夜で、中秋の月が綺麗であるから、李汾は庭前《にわさき》を歩いた後に、琴を弾いていると、外の方で琴に感心しているような人の声がした。李汾は夜更けにこんな処へ何人《だれ》が来たろうと思って、
「何人だね、この夜更けにやってきたのは」
 と言うと、外から女の声で、
「私は秀才の琴を聞きにあがったのですよ」
 と言った。李汾は不審に思って戸を開けてみると、若い女が来て立っていた。李汾が、
「あなたはどうした方です」
 と聞くと、女は、
「私は張の家の者でございますが、今晩はお父さんもお母さんも留守でございますから、そっとお目にかかりにまいりました」
 と言った。李汾が喜んで、
「穢《きたな》い処でかまわなければおあがりなさい」と言った。
 女があがってくると、李汾は茶を出して冗談話をはじめたが、女の口が旨くてかなわなかった。その後で、帷《とばり》をおろし、燈に背き、琴瑟《きんひつ》已《すで》に尽きたところで、※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]が啼いて夜明けを知らせた。女は起きて帰ろうとしたが、李汾は女を帰すのが厭であるから、女の履いていた青い靴を一つ隠して籠の中へ入れた。そのうちに李汾はとろとろと眠りかけた。その李汾の体を女は揺って、
「どうか靴を返してください、今晩きっとまいります、その靴がないと、私は死ななくてはなりません」
 と言って泣いたが、李汾はとうとう返さずに眠ってしまった。女は暫く悲しそうに泣いていたが、李汾が眼を覚ました時には、女はいずに床の前に流れている鮮血が眼に注《つ》いた。李汾は不審に思って籠へ入れてある靴を出してみると、豕の蹄殻《あしのうら》となっていた。再び血を見てみると、家の外の方へ往っていた。朝になってその血の後をつけて往ってみると、張の家の豕を飼ってある処へ往った。そこには李汾のく
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング