きませう、)
彼は到頭女の手を握つた。……
路はまた狭い暗い通りへと曲つた。譲は早く帰つて、下宿の二階で自分の帰りを待ちかねてゐる女に安心さしてやりたいと思つたので、爪先さがりになつた傾斜のある路をとつとと歩き出した。彼の眼の前には無邪気なおつとりした女の顔が見えるやうであつた。
……(私は死ぬるより他に、この体を置くところがありません、)家を逃げ出して東京へ出てから一二軒女中奉公をしてゐる内にある私立学校の教師をしてゐる女と知合になつて、最近それの世話で某富豪の小間使に行つてみると、それは小間使以外に意味のある奉公で、行つた翌晩主人から意外の素振りを見せられたので、その晩の内に其所を逃げ出してふらふらと海岸へやつて来たと云つて泣いた女の泣き声がよみがえつて来た。
譲は自分の右側を歩いてゐる人の姿に眼を着けた。路の右側は崖になつてその上にただ一つの門燈が光つてゐた。右側を歩いてゐる人は此方を振り返るやうにした。
「失礼ですが、電車の方へは、かう行つたらよろしうございませうか、」
それは若い女の声であつた。譲には紅いその口元が見えたやうな気がした。彼はちよつと足を止めて、
「さうです、此所を行つて、突きあたりを左へ折れて行きますと、すぐ、右に曲る所がありますから、其所を曲つて何所までも真直に行けば、電車の終点です、私も電車へ乗るつもりです、」
「どうも有難うございます、この先に私の親類もありますが、この道は、一度も通つたことがありませんから、なんだか変に思ひまして……、では、其所まで御一緒にお願ひ致します、」
譲は足の遅い女と道連れになつては困ると思つたがことはることも出来なかつた。
「行きませう、お出でなさい、」
「すみませんね、」
譲はもう歩き出したがはじめのやうにとつととは歩けない。彼は仕方なしに足を遅くして歩いた。
「道がお悪うございますね、」
女は譲の後に引き添ふて歩きながら何所かしつかりしたところのある言葉で云つた。
「さうですね、悪い道ですね、あなたはどちらからゐらいらしたんです[#「ゐらいらしたんです」はママ]、」
「山の手線の電車で、この先へまでまゐりましたが、市内の電車の方が近いと云ふことでしたから此方へまゐりました。市内の電車では、時々親類へまゐりましたが、この道ははじめてですから、」
「さうですか、なにしろ、場末の方は、早く寝るもんですから、」
譲はかう云つてからふと電燈の笠のことを思ひ出して、あんなことがあつたらこの女はどうするだらうと思つた。
「本当にお淋しうございますのね、」
「さうですよ、僕達もなんだか厭ですから、あなた方は、なほさらさうでせう、」
「ええ、さうですよ、本当に一人でどうしやうかと思つてゐたんですよ、非常に止められましたけれど、病人で取込んでゐる家ですから、それに、泊るなら親類へ行つて泊らうと思ひまして、無理に出て来たんですが、そのあたりは、まだ沢山起きてた家がありましたが、此所へ来ると、急に世界が変つたやうになりました、」
傾斜のある狭い暗い路が尽きてそれほど広くはないが門燈の多い町が左右に延びてゐた。譲はそれを左に折れながらちよつと女の方を振り返つた。綺麗に化粧をした細面の顔があつた。
「こつちですよ、いくらか明るいぢやありませんか、」
「お蔭様で、助かりました、」
「もう、これから先は、そんなに暗くはありませんよ、」
「はあ、これから先は、私もよく存じてをります、」
「さうですか、路はよくありませんが、明るいことは明るいですね、」
「あなたはこれから、どちらへお帰りなさいます、」
「僕ですか、僕は本郷ですよ、あなたは、」
「私は柏木の方ですよ、」
「それは大変ですね、」
「はあ、だから、この先の親類へ泊まらうか、どうしやうかと思つてゐるんですよ、」
譲はこの女は厳格な家庭の者ではないと思つた。香のあるやうな女の呼吸使ひがすぐ近くにあつた。彼はちよつとした誘惑を感じたが自分の室で机に肱をもたせて、自分の帰りを待つてゐる女の顔がすぐその誘惑を掻き乱した。
「さうですな、もう遅いから親類でお泊りになるが好いでせう、其所まで私が送つてあげませう、」
「どうもすみません、」
「好いです、送つてあげませう、」
「では、すみませんが、」
「その家はあなたが御存じでせう、」
女は譲の左側に並んで歩いてゐた。
「知つてます、」
右へと曲る角にバーがあつて入口に立てた衝立の横から浅黄の洋服の胴体が一つ見えてゐたがひつそりとして声はしなかつた。
「こつちへ行くんですか、」
譲は曲つた方へ指をやつた。
「この次の横町を曲つて、ちよつと行つたところです、すみません、」
「なに好いんですよ、行きませう、」
路の上が急に暗くなつて来た。何人かがこのあたりに見張つてゐて故意に門燈のスヰッチを[#「スヰッチを」は底本では「ス井ッチを」]ひねつてゐるやうであつた。
「すこし、此方は、暗いんですよ、」
女の声には霧がかかつたやうになつた。
「さうですね、」
女はもう何も云はなかつた。
三
「此所ですよ、」
蒸し蒸しするやうな物の底に押し込められてゐるやうな気持になつてゐた譲は女の声に気がついて足を止めた。其所にはインキの滲んだやうな門燈の点いてゐる昔風な屋敷門があつた。
「此所ですか、では、失礼します、」
譲は下宿の女が気になつて来た。彼は急いで女と別れやうとした。
「失礼ですが、内まで、もうすこしお願ひ致したうございますが、」
女の顔は笑つてゐた。
「さうですか、好いですとも、行きませう、」
左側に耳門があつた。女はその方へ歩いて行つて門の扉に手をやると扉は音もなしに開いた。女はさうして扉を開けかけてから振り返つて、男の来るのを待つやうにした。
譲は這入つて行つた。女は扉を支へるやうにして身を片寄せた。譲は女の体と擦れ合ふやうにして内へ這入つた、と女は後から従いて来た。扉は女の後でまた音もなく締つた。
「失礼しました、」
薄月が射したやうになつてゐた。譲は眼が覚めたやうに四辺を見まはした。庭には天鵞絨を敷いたやうな青々した草が生えて、玄関口と思はれる障子に灯の点いた方には、陵苔の花のやうな金茶色の花が一めんに垂れさがつた木が一本立つてゐた。その花の香であらう、甘い毒々しい香が鼻に滲みた。
「此所は姉の家ですよ、何にも遠慮はいらないんですよ、」
譲は上へあげられたりしては困ると思つた。
「僕は此所にをりますから、お這入りなさい、あなたがお這入りになつたら、すぐ帰りますから、」
「まあ、ちよつと姉に会つてください、お手間は取らせませんから、」
「すこし、僕は用事がありますから、」
「でも、ちよつとなら好いでせう、」
女はさう云つてから玄関の方へ歩いて行つて花の下つてをる木の傍をよけるやうにして行つた。譲は困つて立つてゐた。
家の内へ向けて何か云ふ女の声が聞えて来た。譲はその声を聞きながら秋になつても草の青々としてゐる庭の様に心をやつてゐた。
艶かしい女の声が聞えて来た。譲は女の姉さんといふ人であらうかと思つて顔をあげた。内玄関と思はれる方の格子が開いて銀色の火の光が明るく見え、その光を背にして上り口に立つた脊の高い女と、格子戸の所に立つてゐる彼の女とを近々と見せてゐた。
譲はあんなに玄関が遠くの方に見えてゐたのは、眼の勢であつたらうかと思つた。彼はまた電燈の笠のくるくる廻つたことを思ひ出して、今晩はどうかしてると思ひながら、花の垂れさがつた木の方に眼をやると、廻転機の廻るやうにその花がくるくると廻つて見えた。
「姉があんなに申しますから、ちよつとおあがりくださいまし、」
女が前へ来て立つてゐた、譲はふさがつてゐた咽喉がやつと開いたやうな気持になつて女の顔を見たが、頭はぼうとなつてゐて、なにを考へる余裕もないので、吸ひ寄せられるやうに火のある方へと歩いて行つた。歩きながら怖は/\花の木の方に眼をやつて見ると木は金茶色の花を一めんにつけて静に立つてゐた。
「さあ、どうぞおあがりくださいまし、妹が大変御厄介になりましたさうで、さあ、どうぞ、」
譲は何時の間にか土間へ立つてゐた。背の高い蝋細工の人形のやうな顔をした、黒い沢山ある髪を束髪にした凄いやうに綺麗な女が障子の引手に凭れるやうにして立つてゐた。
「有難うございます、が、今晩はすこし急ぎますから、此所で失礼致します、」
「まあ、さうおつしやらずに、ちよつとおあがりくださいまし、お茶だけ差しあげますから、」
「有難うございます、が、すこし急ぎますから、」
「待つてゐらつしやる方がおありでせうが、ほんのちよつとでよろしうございますから、」
女は潤ひのある眼を見せた。譲も笑つた。
「ちよつとおあがりくださいましよ、何人も遠慮のある者はゐないんですから、」
後に立つてゐた女が云つた。
「さうですか、では、ちよつと失礼しませうか、」
譲は仕方なしに左の手に持つてゐる帽子を右の手に持ち替へてあがる構へをした。
「さあ、どうぞ、」
女は障子の傍を離れて向ふの方へと歩いた。譲は靴脱ぎへあがつて、それから上へとあがつた。障子の蔭に小間使のやうな十七八の島田に結ふた女中が立つてゐて譲の帽子を取りに来た。譲はそれを無意識に渡しながら女の後からふらふらと従いて行つた。
四
長方形の印度更紗をかけた卓があつてそれに支那風の朱塗の大きな椅子を五六脚置いた室があつた。先に入つてゐた女は派手な金紗縮緬の羽織の背を見せながらその椅子の一つに手をやつた。
「どうかおかけくださいまし、」
譲は椅子の傍へ寄つて行つた。と、女はその左側にある椅子を引き寄せて、譲と斜に向き合ふやうにして腰をかけたので、譲も仕方なしに椅子を左斜にして腰をかけた。
「はじめまして、僕は三島譲といふもんですが、」
譲が云ひはじめると女は手をあげて打ち消した。
「もう、そんな堅くるしいことは、お互いによしませう、私はかうした一人者のお婆さんですから、お嫌でなけれやこれからお友達になりませう、」
「僕こそ、以後よろしくお願致します、」
譲の帽子を受け取つた女中が、櫛形の盆に小さな二つのコツプと竹筒のやうな上の一方に口が着き一方に取手の着いた壺を乗せて持つて来た。
「此所へ持つてお出で、」
女がさしづをすると女中は二人の間の卓の端にその盆を置いてから引き退らうとした。
「お嬢さんはどうしたの、」
女中は振り返つて云つた。
「お嬢さんは、なんだかお気持が悪いから、もすこしして、お伺ひすると申してをります。」
「気持が悪いなら、私がお相手をするんだから、よくなつたらいらつしやいつて、」
女中はお辞儀をしてから扉を開けて出て行つた。
「お茶のかはりに、つまらん物を差しあげませう、」
女は壺の取手に手を持つて行つた。
「もうどうぞ、すぐ失礼しますから、」
「まあ、好いぢやありませんか、何人も遠慮する者がありませんから、ゆつくりなすつてくださいまし、このお婆さんでよろしければ、何時までもお相手致しますから、」
女は壺の液体を二つのコツプに入れて一つを譲の前へ置いた。それは牛乳のやうな色をした物であつた。
「さあ、おあがりくださいまし、私も戴きますから、」
譲はさつさと一杯御馳走になつてから帰らうと思つた。
「では、これだけ戴きます、」
譲は手に取つて一口飲んでみた。それは甘味のあるちよつとアブサンのやうな味のする酒であつた。
「私も戴きます、召しあがつてくださいまし、」
女もそのコツプを手にして誉めるやうにして見せた。
「折角のなんですけれど、僕は、すこし、今晩都合があつて急いでゐますから、これを一杯だけ戴いてから、失礼します、」
「まあ、そんなことをおつしやらないで、こんな夜更けに何の御用がおありになりますの、たまには遅く行つて、じらしてやるがよろしうございますよ、」
女はコツプを持つたなりに下顎を突き出すやうにして笑つた。譲も仕方なしに笑つた。
「さあもすこしおあがりなさいましよ[#「おあ
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング