「何処に」と、女房が顔を動かすと、蠅は九兵衛の膝頭に移った。
「昨日の蠅でしょうか」
「そうかも判らんな」
「煩いから潰しましょうか」
九兵衛は両手の掌を窪めて左右から持って往ってすぐ掌の中へすくいこんだ。
「潰さずに何処か遠くへ捨てさせよう、店から袋を持っておいで」
女房は黙って部屋を出て往ったが、直ぐ店で使う小さな紙袋《かんぶくろ》を持って来た。
「清吉が堀川の方へ用達しに往くそうじゃから、あれに捨てさせましょう」
九兵衛は女房に袋の口を開けさせ、その上に手を持って往って下の方から蠅を出し、急いで袋の口を捻じた。女房はそれを持って再び店の方へ往った。
夕方になって親子三人で夕飯をはじめようとしていた。婢は湯気の立つ鍋の中から煮た物をしゃくうていたが、それがそれぞれ三つの椀に盛られると、いっしょに盆に載せて女房の方へ出した。女房はまずその一つを九兵衛の膳に載せようとして、椀を差しだしたところで蠅が来てその手首にとまった。
「あ」と、女房は何か恐ろしい物でもとまったように見つめていた。
「蠅か」と、九兵衛は煩そうな顔をした。
「今朝の蠅でしょうか」と、女房は左の手を持って往って追った。九兵衛は椀を受けとった。
「まさか、今朝の蠅じゃなかろう」
蠅は二人の眼前《めのまえ》をちらちらしていたが、やがて九兵衛の右の腕にとまった。九兵衛は左の手を持って往って掌で伏せ、そっと指で撮んだ。
「おんなじ蠅が戻るか、戻らんか、ためして見る、お豊、臙脂《べに》を持っておいで」
女《むすめ》が臙脂を持って来ると、九兵衛はそれを羽にも体にもべとべと塗ってまた紙袋に入れたが、朝になってすぐ近くで店を出している弟の勘右衛門が伏見へ往くと云って寄ったので、その袋を頼んでやった。
蠅は一疋であったと見えてその日は一日|何人《だれ》も蠅の姿を見なかった。その日は微曇《うすぐもり》のして寒い日であった。夕飯の後で九兵衛は蠅のことを云いだした。
「今日蠅のおらざったところを見ると、やっぱり蠅は一つであったらしいな、それとも二疋おって、一つは昨日捨てておらんようになり、一つは今日捨てに往ったから、それでもう蠅がおらんと云うことになったかも知れんな」
「それとも、昨日の奴が戻ったかも判りませんよ」と、女房は物の陰影を見ているような眼つきをした。
「この寒いのに、そんなに蠅は数多《たくさん》おらんだろうが、堀川あたりへ捨てたものが、戻って来やしないだろう」
「そうでしょうか、どうも私は、彼《あ》の蠅が戻って来たような気がしますよ」
女房の眼前の行灯の障子に蠅の影が見えた。
「また蠅が」
と、彼女は恐ろしそうに云った。
九兵衛は横から顔を持って往って一眼見た後に、膝を寄せて往って両手ですくい、それを右の指端《ゆびさき》に軽く撮んで行灯の戸を開けて灯火の光に透して見た。羽にも腹の下にも塗ったままの臙脂《べに》が点《つ》いていた。九兵衛はふと気になった。蠅は指の下をすべり抜けて彼と女房の頭の上あたりを静に飛んだ。
「臙脂が点いておりますか」と、女房は大きな声をするのが恐ろしいと云う容《ふう》に聞いた。
「うむ」と、九兵衛は頷いて見せた。
彼の心は何かに往き当っていた。彼の心には先月亡くなったお玉と云う婢のことが浮んでいた。若狭の生れで宇治の方に伯母が一人あるだけで、他には親も兄弟もない女であった。円顔の小作りな女で飾屋へ四五年も奉公している間に、衣服《きもの》は一枚もこしらえずに百目ほどの銀をためた。
「そんなに銭ばかり集めて、どうするか」
ある日女房が冗談はんぶんに云うと、お玉はこうこたえた。
「お父さんやお母さんの位牌を、お寺へ立てたいから、それで集めております」
そして、昨年の秋になってお玉は常楽寺と云う寺へ両親の位牌を立て、祠堂料として銀七十目を収めたが、その残りの三十目は主人に預けてあった。それが冬になって病気になって次第に重くなって来たので、宇治の伯母の許へ引とられて養生していたが、とうとう先月の十一日に亡くなった。――九兵衛はふと預かって未だそのままになっている女の銭のことを、思いだした。
「お玉の銭を預かっていたな」と、云って彼は女房の顔を見た。
女房は九兵衛と眼を見合しただけで声は出さなかった。蠅はまだ頭の上の方で羽音をさしていた。
「あんなにして、親の位牌をたてた女じゃから、彼の銭で供養でも受けたいと思うておるかも判らんな」
「さようでございますよ」と、女房は体をこわばらせたようにしていた。
「あれの死んだのは、何時であったかな」と、九兵衛は考えて、「十一日か、……それで、そうすると、明日は四十九日じゃな」と、またすこし考えて、「よし明日は勘右衛門に頼んで我家《うち》から三十目足して、六十目にして、通西軒と瑞光寺とに三十目ずつ
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