崔書生
田中貢太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)崔《さい》
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崔《さい》は長安の永楽里《えいらくり》という処に住んでいた。博陵《はくりょう》の生れで渭南《いなん》に別荘を持っていた。貞元年中のこと、清明《せいめい》の時分、渭南の別荘へ帰って往ったが、ある日、昭応《しょうおう》という処まで往くと陽が暮れてしまった。
崔は驚いて馬をいそがした。そこは松や柏の茂った林の下で、まだ空の方は明るかったが、林の中はうっすらと暮れていた。と、見ると、すぐむこうの方に一人の綺麗に着飾った若い女が立っていた。崔の馬が進んで往くと、女はびっくりしたように歩こうとしたが、気が顛倒しているかして、彼方へよろけ此方へよろけした。崔は僕《げなん》を供に伴《つ》れていた。崔は僕を振り返った。
「道に迷ってるようだ、お前往って訊いてこい」
僕も馬に乗っていた。僕は主人の崔を残しておいて女の傍へ往った。
女は袖で顔をかくして僕を見なかった。僕はかえってきた。
「恥しがって何にも申しませんが、どこかこの近くの方《かた》でございましょう」
崔は言った。
「そのままにしてもおけまい、お前の馬へ乗せて送ってやろうじゃないか」
僕は馬から降りて馬の轡《くつわ》を取り、女の傍へ引返して往った。
「御主人がお送りいたせと申します、お乗りください、お送りいたしましょう」
女は顔へやっていた袖をとって僕を見て微笑した。僕は女を軽がると抱きあげて馬へ乗せた。
「お宅は何方様でございます」
女は黙ってむこうの方へ白い指をさした。僕は女の指の方へ馬を曳いて進んだ。崔もその後から馬を歩かせた。
林の中は月の光がさしたように明るくなった。女は振り返って崔の方を見た。それは綺麗な紅い唇をした少女であった。女は笑った。崔も笑顔をしてそれを迎えた。
すこし歩いているとむこうの方で女の声がした。二三人の青い着物を着た婢《じょちゅう》が来ていた。
「どんなにおさがししたか判りません」
一人の婢は進んできて女を見た後に、その眼を僕へやった。
「どうもありがとうございました、御厄介をかけて相すみません」
「お嬢さんが、お困りになってらっしゃるのを、私の主人が見まして、お送り申せと申しますので、お送りいたしました、あの馬に乗ってるのが、私の御主人でございます」
婢は崔の傍へ往った。
「とんだ御厄介をかけまして、ありがとうございます、すぐ傍でございますから、ちょっとお立ち寄りを願います」
崔は女に眼を引かれていた。崔はそのまま帰りたくはなかった。一行は前へ往った。林のはずれがきた。年とった青い着物を着た婢が一人立っていた。年とった婢は崔の傍へ来た。
「お嬢様が御厄介をかけまして、なんともお礼の申しようもございません、今晩お酒宴《さかもり》をしておりますうちに、興にまかせて、お歩きになったために、こんなことになりました、お陰様でお怪我もせずにすみました、奥様がどんなにお喜びになるか判りません、お立ち寄りを願います」
十丁あまりも往くとまた林がきた。林の入口に別荘風の家が見えて、そのまわりに桃と李《すもも》の花が一面に咲いていた。暖かな風が吹いて花の香を送ってきた。
門口にもまた五六人の婢が立っていた。婢の群は若い女を馬からおろして入って往った。崔も馬からおりて僕《げなん》といっしょにそれぞれ自個《じぶん》の乗っていた馬を傍の花の木に繋いだ。林のはずれに立っていた婢が若い二三人の婢といっしょに引返してきた。
「奥様が大変な喜びでございます、どうかお入りくださいまし」
崔は僕を残しておいて年とった婢に導かれて家の中へ入った。広い清らかな室《へや》があって酒や肴がかまえてあった。室の隅には四十前後の貴婦人が腰をかけていた。貴婦人は崔を見ると起《た》ってきた。
「よくいらしてくださいました」
貴婦人は崔に向ってしとやかに礼をした。崔もうやうやしく礼を返した。
「外甥女《めい》が御厄介になりまして、ありがとうございます、何もありませんが、お一つ差しあげとうございます、さあ、どうぞ」
貴婦人は崔を席に著《つ》かした。若い婢が十人位来て崔に酒を勧めた。崔は豪傑の性《たち》であった。彼は勧められるままに飲んで陶然として酔うた。
貴婦人は崔と向き合ってお愛想に盃を持っていた。貴婦人の白い頬も赤味を帯びていた。貴婦人と崔との間は親しくなっていた。
「さっき御厄介をかけた外甥女を、貴君《あなた》の奥さんに差しあげたいと思いますが、如何でございましょう」
崔はほがらかな気もちになっていた。
「そうですな、いただきましょう」
貴婦人は年とった婢に言いつけてかの女を呼びにやった。崔は微笑しながらまた数杯の酒を飲んだ。
女が綺麗に着飾って恥しそうな顔を
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