ていらっしゃるから、咽喉の辺をさすったのよ」
若い女はまた笑いだした。
「そうでございましょう、ほんとに貴女は、悪戯ばかしして困りますよ」
背の高い女はこう言って章の方を向いて、
「お嬢さんは、まだねんねえでございますから、ほんとうにすみません」
「いや、どういたしまして、私は獣でも来て嘗めたと思いましたから、払い除ける拍子に、何か手端《てさき》に触りましたから、一生懸命に掴んで見ますと、それがお嬢さんの手でした、私こそ寝ぼけてて、お嬢さんを甚《ひど》い目に遭わして、お気の毒ですよ」
章は若い女の方を見て笑った。
「どういたしまして、ほんとにお嬢さんは、ねんねえで困ります」
背の高い女は若い女の方を見た。
「これがいい方だからかまわないようなものの、他の方であったら、どんな目に遭わされるかも判りませんよ、もうこれに懲《こ》りて、こんなことをなされてはいけませんよ」
若い女はまたしても笑いだした。
「でね、この方が、送ってくださると言ってらしたところよ」
「それは、どうもすみません」
背の高い女はこう言ってから、
「お嬢さんは、私がもうお伴れいたしますが、貴方様は、これからどうなされます、もし、おかまいがないなら、私の方へお泊りなされては如何でございます」
「いや、それは、今もお嬢さんにお願いしてたところです、私はこの下の村の猟師ですが、獣を追駈けてるうちに、日が暮れてしまって、しかたなしに寝てた者ですから、お嬢さんをお送りして、簷《のき》の下でも拝借しようと思っておりました」
「それでは、どうぞ、何もおかまいいたしませんが、私の方はお嬢さんと二人きりで他に何人《だれ》もおりませんから」
三人は小さな山の畝《うね》りを東の方へ越していた。背の高い女は、若い女の乳母であった。章はこうして山の中に、二人の女が暮しているのが不思議でたまらなかった。
畝りを越えて降りて往くと、谷の窪地になって一軒の家が月の下にすぐ見えてきた。門の前には谷水が白く流れて、それに石橋が架けてあった。乳母はその石橋をさきへ渡って家の中へ入って往った。
錦の帷《とばり》の見える室《へや》の中に燈火《あかり》が点《つ》いていた。章はその室へ通されて一人で坐っていた。乳母と女が入ってきた。二人の手には肉を盛った鉢があった。
「何もありませんが、おあがりになってくださいまし、お嬢さんも私もお相伴《しょうばん》いたします」
章はお辞儀をした。乳母は一人でまた出て往って料理をたべる器を持ってきた。そして三人で卓に向った。
「さあ、何もございませんが」
乳母は章の盃に酒を充した。
「お嬢さんも、自個《じぶん》でおあがりなさいまし」
女は無邪気に鉢の肉を取って喫《く》いはじめた。章はその無邪気な容《さま》を見ないようにして見ていた。乳母も二人が食事をはじめたのを見ると、自個でも肉に手をつけた。
章はまた乳母の方へ眼をやった。女が無邪気であるように乳母も無邪気であった。とてもこんなことは村の女の間では見られないと思った。
「さあ、どうぞ、おあがりくださいまし、私達も遠慮なしにいただいております」
乳母は時どきこんなことを言った。
章はさっきから無邪気な女の口もとを見ていた。女は食物に気をとられていて章のそうしている容が判らないようなふうであった。
「お嬢さん、お客さんにも、お愛想《あいそ》をなさるものですよ」
乳母はこう言って注意すると、女は気が注《つ》いたように章の方を見て、顔を赤くして箸を置いた。
「お嬢さんはほんとにねんねえでございますからね、でも考えてみますと、お嬢さんはお気の毒でございますよ、旦那様は立派な方でございましたが、都合があってお嬢さんが生れたばかりの時、この山へお入りになりましたが、間もなく旦那様も奥様もお嬢様を残して、お歿《な》くなりになりましたから、私がこうして一人でお世話をしております」
乳母はしんみりとした態度になって言いはじめた。
「お嬢さんは、もう十七でございますから、よい処がございますなら、嫁《かた》づけたいと思います、そうなれば、私の重荷もおりますが、女の手では、思うようにならないで困っております、ほんとにそういう場合には、何人かしっかりした男のお友達が欲しいと思います」
章は乳母が永い間の労苦に同情の眼を向けた。若い彼は酒のために非常に感情的になっていた。
「そうですか、それはたいへんでしたね」
「なに、私もおよばずながら、旦那様と奥様に、御恩報じをいたしたいと思うてやっておることでございますから、苦しいとも何とも思いませんが、時たま、女ばかしでは困るので、貴方のような、若いしっかりしたお友達があるならいいがと、思うことがあります、どうかこれを御縁に、これからお友達になってくださいまし」
「私でかま
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