狼の怪
田中貢太郎

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)凭《もた》せかけた

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「なったのて」はママ]
−−

 日が暮れてきた。深い山の中には谷川が流れ、絶壁が聳え立っていて、昼間でさえ脚下に危険のおおい処であるから、夜になっては降りることができない、豪胆な少年も当惑して、時刻に注意しなかったことを後悔した。彼はしかたなしに大きな岩の下へ往って、手にしていた弓を立てかけ、二疋の兎を入れている袋といっしょに矢筒も解いて凭《もた》せかけた。
 右手に方《あた》って遠山が鋸の歯のように尖んがった処に、黄いろな一抹の横雲が夕映の名残りを染めて見えていた。章《しょう》はぼんやりした眼で、その横雲の方を見ながら、糧食《べんとう》の残りの餅を喫《く》っていた。下の方の谷では、水の音とも風の音ともわからない、ざ、ざ、という音がしていた。彼は襟元に寒さを感じた。
 もう四辺《あたり》は真暗になってきた。遠くの方で獣の吼える声が物凄く聞えてきた。深い高い空には星が光って見えた。章は星の光を透して見ながら、もう月が登りそうなものだと思った。獣の吠える声がますます凄く聞えた。章は渇きを覚えたので、水を飲もうと思って岩の後ろへ廻り、そこへ来た時にちらと見てあった、岩の裂目《さけめ》からしたたり落ちている水を掌《て》に掬うて飲んだ。そして、思うさまに飲んで元の処へ帰ったところで、うっすらとした光が見えた。谷を越えた左手の峰の林の間に、赤い月が登りかけているところであった。
 引き緊っていた章の心に、ややゆとりが出来た。彼は岩に凭れて長ながと両足を投げだしたが、昼の疲れが返ってきて、足の裏や膝こぶしに軽い痛みを覚えてきた。
 円い大きな月が団扇《うちわ》のように木の枝に懸《かか》って見えた。章はいつの間にか睡くなったのて[#「なったのて」はママ]、体を横倒しにして、矢筒を引き寄せ、それを枕にして寝てしまった。心よい重おもしい睡が続いてやってきた。そうして前後を忘れて睡っていた章は、何物かに咽喉元を嘗められたような気がするので、手をやって払い除《の》けようとしたが、そのひょうしに手の端《さき》に生物の温味《あたたかみ》を感じたので、力を入れて握り締めた。と、同時に女の叫ぶような不思議な声が聞えた。
 夢現《ゆめうつつ》の境にいた章の眼は覚めてしまった。青い衣服《きもの》を着た小柄な女が、自個《じぶん》に片手を掴まれて傍に仆《たお》れていた。
「赦《ゆる》してください、赦してください」
 女は泣声を立てた。章は手に力を入れることを止めて、俯伏しになっている女の顔を見た。若い長手《ながて》な顔をした女であった。
「赦してください、悪うございました」
 章はこうした山の中へ若い女のくるのを不思議に思わぬでもなかったが、別に敵意のない弱い女ということを見極めたので、掴んでいた手を放した。
「あなたは、どうした方です」
 女はそこへ蹲《しゃが》んでしまった。
「この、すぐ、前方《むこう》の谷陰にいる者でございます」
「では、ここへ、何しにきました」
「月が綺麗なものでございますから、つい、ふらふらと歩いてきました」
 章は咽喉元を嘗められたような気のしたのをおもいだした。
「私は、貴女の手を、どうした拍子に掴んだのか判らないが、なんだか夢心地に、咽喉元を嘗められたように思います、私の咽喉をどうかしたのですか」
 黒い水みずした眼があった。
「どうも悪うございました、つい悪戯《いたずら》をいたしました」
 章は無邪気な女を苦しめては可哀想だと思いだした。
「そうですか、私は、また、獣か何かが来て、嘗めたかと思いました、不意に手を掴んだので、びっくりしたのでしょう」
 女の笑声がそこに起った。
「皆さんが心配してるかもわかりません、送ってあげましょう」
「有難うございます」と言ったが、女はもじもじして起《た》ちあがらない。
「送ってあげましょう、私も猟にきて帰れないので、しかたなしにここに寝ておりますものの、ゆっくり睡れないのですから、貴女の家の簷《のき》の下でも拝借しましょう」
「では、お願いいたします」
 章は立ちあがって猟袋を背にかけはじめた。
「まあ、こんな処に、何をしていらっしゃるのです」と不意に女の声がした。
 章は矢筒を持ったなりに振り返った。二十七八に見える背の高い女が来て立っていた。
「ここでこの方にお目にかかってね」若い女は急に笑いだして、そして言った。「それでね」
「お目にかかってどうしました、また何か、悪戯《いたずら》をなされたではありませんか」
 若い女は笑って何も言わない。
「何かまたきっと悪戯をなされたでしょう」
「ほんとうは悪戯したのよ、この方が睡っ
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田中 貢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング