てから、いつも賓娘のことを念《おも》って、使をやって探らそうとしたが、道が遠いのでいくことができなかった。ある日、家の者が入って来て、
「門口へ車が来ました。」
 といった。喬夫婦が出て見ると、それは賓娘で、もう庭の中へ入って来ていた。三人は相見て悲喜こもごも至るというありさまであった。それは賓娘の父の史太守が自分で女を送って来たところであった。喬は大守を室に通した。大守は、
「うちの子供は、君によって生きかえったから、どうしても他へいかないというので、その言葉に従って伴《つ》れて来た。」
 といった。喬は礼をいった。そこへ孝廉がまた来て、親類としてのあいさつをした。喬は名は年《ねん》、字《あざな》は大年《たいねん》というのであった。



底本:「聊斎志異」明徳出版社
   1997(平成9)年4月30日初版発行
底本の親本:「支那文学大観 第十二巻(聊斎志異)」支那文学大観刊行会
   1926(大正15)年3月発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2007年8月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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