を見た。李はもう往ってしまっていなかった。それから李はこないようになった。桑は何人《だれ》もいない斎に寝て百日の後に訪ねてくると言った蓮香のことをおもっていた。それは農夫が穀物のできるのを待つのと同じように。
 ある日、同じように蓮香のことを思いつめていると、不意に簾《すだれ》をあけて入ってきた者があった。それは蓮香であった。桑の榻の傍へきて哂《わら》って言った。
「いなか者、私の言ったことがうそなの」
 桑は泣いて何も言えなかったが、やっと言った。
「僕が悪かった、あやまる、どうか助けてくれ」
 蓮香は言った。
「病が骨に入っては、どうすることもできないのです、私はちょっとあがりましたが、もうこれでお別れします、私はこれでやきもちでなかったことが解ればいいのです」
 桑はひどく悲しんで言った。
「これというのも、この枕の下の物がいけないのだ、僕に代ってこわしてくれ」
 蓮香が手をやってみると、彼の繍のある李の履があった。蓮香はそれを燈の前へ持って往って、あっちこっちとかえして見た。と、李が急に入ってきたが、蓮香を見るとそりかえって逃げようとした。蓮香は走って往って出口に立ちふさがった。李は立ちすくんでしまった。桑は李を責めた。
「俺をたぶらかしやがって、なんだ、きさまは、言え、言っちまえ」
 李は答えることができなかった。蓮香は笑って言った。
「私は、今、あなたと初めて顔をあわせるのですが、いつかの桑さんの病気は、私のせいだと言ったそうですが、このさまはどうしたのです」
 李は頭をさげてあやまった。
「私が悪うございました」
 蓮香は言った。
「こんな美しい方が、愛を仇にしてかえすとはどうしたものです」
 李は体を投げだして泣いた。
「悪うございました、どうか許してください」
 蓮香はそれを扶《たす》け起して精《くわ》しくその素性を訊いた。李は言った。
「私は、李通判《りつうはん》の女《むすめ》で、早く亡くなって、此所の牆《かき》の外に埋められているものです、私は死んでおりますけれども、情熱がまだ消えずにおりますから、若い方と交わりたいのが私の願いです、この方を殺そうとするのは、私の本心ではありません」
 蓮香は言った。
「あの世の人が、人の死ぬるのをいいことにしているのは、死後にいっしょになりたいからだというのですが、ほんとう」
 李は言った。
「そんなことはないのです、あの世の人ばかりが逢ったところで、なんにも楽しみはないのです、あの世の人でよければ、若い方はいくらでもあります」
 蓮香は言った。
「馬鹿ですわ、ね、え、毎日人を愛するのは、人間でさえも堪えられないのに、ましてあの世の人がね、え」
 桑が訊いた。
「狐はよく人を殺すのですが、なんのためにそうするのです」
 李は言った。
「人の精気を採って自分の精気をおぎなうものがそうするのです、私達はその類《たぐい》じゃないのです、だから人を害しない狐もあれば、人の害をしない鬼というものもないのです、これは陰気が盛だからですよ」
 桑はこの言葉を聞いて狐も鬼も皆あることを知ったが、二人とは慣れているので、それほど駭きはしなかった。ただ息が糸のようになってつまりそうになってきたので、覚えず叫ぼうとしたが声が出ずに身をもがいた。蓮香は李をみかえって訊いた。
「どうして手あてをしたものでしょう」
 李は顔を赧《あか》くしてへりくだって言った。
「すみません」
 蓮香は笑った。
「なに、まだ体は強いのですから、まだやいてもいいのですよ」
 李は襟を直して言った。
「もし、何処かに名医がありますなら、私がきっと癒してもらいます、それができれば、私は地の下に帰ります、もうこの世で恥をさらしません」
 蓮香は嚢《ふくろ》を解いて薬を出して言った。
「私はとうから今日あることを知ってましたから、三山へ往って薬を採って、三箇月してやっと調《ととの》いました、どんな病気でも癒らないものはありません、でもこの病気の原因は、あなたですから、この薬を飲ますには、あなたの体の物を用いなくてはいけないのです、願えましょうか」
 李は訊いた。
「どんなことでしょう」
 蓮香は言った。
「あなたの唾ですよ、私が丸薬を出しますから、それを口に入れて唾をつけてください」
 李はぽっと頬を赧くして俯向いた。その拍子にかの履を見た。蓮香は言った。
「あなたの思うとおりにできたのは、この履ですね」
 李はますます慚《は》じて、其所にいるのに堪えられないようであった。蓮香はそこで丸薬を桑の口に納れ、それから李の前に出した。李はしかたなしに嘗めた。蓮香は言った。
「もう一度願います」
 李はまたそれを嘗めた。そうして三四回も唾をつけた後にはじめて桑の口の中へ入れた。暫くすると桑の腹の中で雷の鳴るような音がおこった。蓮香はまた次の丸薬を出したが、それは自分が嘗めてから桑の口に納れた。桑は腹の中が火のように熱して、精神のいきいきとしてくるのを覚えた。蓮香は言った。
「これで癒った」
 李は※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]《とり》の鳴くのを聴いて※[#「にんべん+方」、第3水準1−14−10]※[#「にんべん+皇」、120−17]《ほうこう》として帰って往った。蓮香は桑の病後の体を養うには物を食べさせないようにしなくてはいけないので、桑が故郷へ帰ったように見せかけて、桑の友達をこさせないようにしながら、夜も昼も桑の傍にいて看護した。李も毎晩来て手助けをしながら蓮香に姉のように事《つか》えた。蓮香もまた李をいたわってやった。
 桑は三箇月してもとのとおりの体になった。李は三四日おきにしかこないようになった。たまにくることがあってもちょっと桑を見ただけで帰って往った。いっしょにいてもさえない顔をしていた。蓮香はいつも留めていっしょに寝ようとしたが肯《き》かなかった。ある時桑は李の帰ろうとするのを追って往って抱きかかえて帰ってきたが、それは葬式の時に用いる茅《かや》で作った人形のように軽かった。李は逃げることができないので、とうとう着物を着たままに寝たが、その体をかがめると二尺にもたりなかった。蓮香はますます憐《あわれ》んだ。そして桑が眼を覚ました時には李はもういなかった。
 後、十日あまりになったが李は再びこなかった。桑は李に逢いたいがこないので、いつも履を出して弄った。蓮香は言った。
「ほんとうに綺麗な方ですわ、女の私が見てさえ可愛いのですもの、男の方は、ね、え」
 桑は、
「せんには履を弄るとすぐ来たから、疑うことは疑っていたものの、鬼ということは思わなかったよ、今、履を見てその容《さま》を思うことは、ほんとに堪えられないね」
 と言って涙を流した。
 その時紅花埠に章という富豪があった。十五になる燕児《えんじ》という字《おさなな》の女があって、結婚もせずに歿くなったが、一晩して生きかえり、起きて四辺を見たのち奔《はし》り出ようとした。女の父親があわてて扉を閉めて出さなかった。女は言った。
「私は通判の女の魂ですよ、桑さんに愛せられているのです、だからあすこに私の履が遺してあります、私はほんとうに鬼ですよ、私をたてこめたって何の益にもなりません」
 女の父親はその言葉によりどころがあるように思ったので、其所へ来た理由を訊いた。女は彼方を見此方を見してぼんやりとなって自分でも解らないようになった。その席にいた一人が、
「桑生は病気で国へ帰ったというじゃないか、そんなことはないだろう」
 と言った。女は、
「たしかにおります、帰ったというのは嘘です」
 と言って聞かなかった。章の家ではひどく疑っていた。東隣の男がそれを聞いて、垣を踰《こ》えてそっと往って窺いた。桑と美人が向きあって話していた。東隣の男はいきなり入って往った。女はひどくあわてていたが、そのまに見えなくなってしまった。東隣の男は言った。
「君は帰ってるはずじゃないか、どうしたのだ」
 桑は笑って言った。
「いつか君に言ったじゃないか、女なら納れるってね」
 東隣の男は燕児の言ったことを話した。桑は燕児の家へ往って探ろうとしたが口実がないので困った。燕児の母親は、桑生のまだ帰っていないことを聞いて、ますます不思議に思って、傭媼《やといばば》に履があるかないかを探らしによこした。桑生は履を出して与えた。
 燕児は履がくると喜んだ。そしてその履を穿《は》こうとしたが一寸ばかりも小さくって履けなかった。そこでひどく駭いて鏡を取って顔を映したが、たちまちうっとりとなって言った。
「お母さん、私の体には何人か他の人がいるのですよ」
 母親ははじめてその怪異を悟った。女はまた鏡を見てひどく泣いて言った。
「あの時には、私も容色《きりょう》に自信があったのだ、それでも蓮香姉さんを見ると恥かしかったが、今、かえってこんな顔になったのだ」
 傍にいる人は李の鬼であるということが解らなかった。女は履を取って泣き叫んで、なだめてもやめなかった。そして、蒲団にくるまって寝て、食物を持って往っても喫《く》わなかった。体は一めんに腫れて、七日位の間は何も喫わなかったが死ななかった。そして腫れがやっとひいて、ひもじくてたまらなくなったので、そこで食事をした。
 二三日して体一めんが※[#「やまいだれ+蚤」、第3水準1−88−53]くなって皮がことごとく脱けた。そして朝はやく起きて、病中にはいていた履の落ちているのを拾って履いたが、大きくて足に合わなかった。そこで桑の所からもらってきたかの履をつけてみるとしっくりと合った。燕児は喜んでまた鏡を執って見た。それは眉も目も頬も婉然たる李であった。燕児はますます喜んで湯あみをし頭髪を結って母を見た。見る者がその顔をじっと見詰めて驚いた。
 蓮香は燕児の不思議を聞いて、桑に勧めて媒《なこうど》をたのんで結婚させようとしたが、桑は貧富の懸隔《けんかく》が甚しいのですぐ蓮香の言葉に従うことができなかった。ちょうどその時、燕児の母の誕生日になった。桑はその小児の婿の往くに従《つ》いて往ってお祝いをした。母親は来客の中に桑の名あるを見てためしに燕児に言いつけて簾の間から窺いていて桑を見わけさした。
 桑は最後に往った。燕児はにわかに走り出て桑の袂をつかまえていっしょに帰ろうと言いだした。母親が叱ったのではじめてはじて入って往った。桑はその女をつくづく見るに婉然たる李であったから覚えず涙を流した。そこで母親の前に這いつくばってしまった。母親は桑を扶け起して侮らなかった。
 母親は自分の兄弟に媒を頼んで、吉《よ》い日を選んで桑を入婿にしようとした。桑は家へ帰って蓮香に知らして燕児と結婚することについて相談した。蓮香はかなしそうな顔をして聞いていたが、やや暫くして別れて帰ると言いだした。桑は駭いて理由を訊いた。桑は涙を流していた。蓮香は言った。
「あなたが、入婿になって、人の家へ往って婚礼するのに、私はどうして従いて往けましょう」
 そこで桑は故郷へ帰って燕児を迎えることにしたので、蓮香も承知した。桑はそこで章へ往ってその事情を話した。章の家では桑に細君のあるのを聞いて、怒って燕児をせめたが、燕児が力《つと》めてとりなしたので桑のねがいのようになった。
 その日になって桑は自分で燕児を迎えに往った。時日がすくなかったので家の中の設備ができていなかったが、新婦を伴れて帰ってみると、門から座敷に到るまで一めんに毛氈を敷きつめて、たくさんの蝋燭を点け、燦然として錦を張ったようになっていた。蓮香は新婦を扶けて式場に入った。その花嫁の顔にかける搭面をかけた容《かたち》までが李そっくりであった。
 蓮香は合※[#「丞/己」、125−11]《ごうきん》の礼をあげる席にいっしょにいて、燕児の李に還魂《かんこん》の不思議なことを訊いた。燕児は言った。
「あの日、くさくさしていられないうえに、私の身分が違っているので、自分で体の穢《けがれ》が厭でたまらず、腹が立って墓にも帰らないで、風のまにまに往っているうちにも、生きた人が羨ましくってしかたがなかったのです、そし
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