其の時、中村座に関係していた蔦芳《つたよし》と云う独身者《どくしんもの》がいた。それは、演戯茶房《しばいちゃや》蔦屋《つたや》の主翁《ていしゅ》の芳兵衛《よしべえ》と云う者であったが、放蕩《ほうとう》のために失敗して、吉原角町河岸《よしわらすみちょうがし》の潰《つぶ》れた女郎屋の空店《あきだな》を借りて住んでいた。
 蔦芳は中村座の開場が近くなったので、毎日吉原から通っていたが、某日《あるひ》浴衣《ゆかた》が汗になったので、更衣《きがえ》するつもりで二階の昇口《あがりぐち》へ往《い》ったところで、壮《わか》い男が梯子段《はしごだん》へ腰をかけていた。蔦芳は自分にことわらないで、あがりこんでるのは何人《たれ》だろうと思って見たが、夕方で微暗《うすぐら》いのではっきり判らなかった。
「おい、おめえは何人《たれ》だ、其処《そこ》にいちゃ邪魔にならあ」
 気の強い蔦芳は、いきなり足で其の男を蹴《け》っておいて二階へあがり、俳優《やくしゃ》のお仕着《しきせ》の浴衣を執《と》って来たが、おりる時にはもう其の男は見えなかった。
 それから五六日して蔦芳は、亦《また》彼《か》の壮《わか》い男が便所の口
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