たのじゃないかね」
 海石は笑って言った。
「師匠について小技を習ったまでだ、仙人じゃないよ」
 滄客はその師匠のことを訊いた。海石は言った。
「山石《さんせき》道人だ、だが、僕は、この獣を殺すことができないから、師匠に献上することにする」
 海石はそこで帰ろうとして別れの挨拶をしたところで、袖の中が空になっているのに気がついた。海石は駭いた。
「しまった。しっぽの端《さき》に大きな毛があったのを、まだ抜かなかったから、遁《に》げて往ったのだ」
 一座の者は駭いた。海石は言った。
「首の毛を皆抜いてあるから、人に化けることはできない、ただ獣には化けられる、化けても遠くへは往っていないだろう」
 そこで室の中に入って往って飼ってある猫を見、門を出て往って犬をけしかけたが、それには異状がなかった。豕《ぶた》を飼ってある圏《おり》を啓《あ》けて笑って言った。
「此処にいる」
 滄客は其処に往ってみた。圏の中には豕が一疋多くなっていた。豕は海石の笑声を聞くと、とうとう寝て動かなかった。海石はその耳をつかまえて出た。しっぽに一本の針のような硬《こわ》い白い毛があった。海石がそれを検べて抜こうとした。豕は体を動かして抜かさなかった。海石が言った。
「汝はたくさん悪いことをしながら、まだ一本の毛を惜しがるのか」
 海石はしっかと豕をつかまえてその毛を抜いた。と、豕はそのまま貍になった。海石はそれを袖に納れて出て往こうとした。滄客が無理に留めたので飯を喫《く》って帰った。海石は言った。
「この次は、何日比《いつごろ》逢えるだろう」
「どうも予定することができない、僕の師匠は、大きな願いを立てて、僕等を海上へ傲遊《ごうゆう》さして、衆生を救わしているから、二度と逢えないかも解らない」
 滄客は海石と別れた後になって、山石道人の名を静かに考えてから、はじめて悟って言った。
「海石は仙人だ」
 それは山と石の字を合わすと岩の字になるが、それは呂仙の諱《いみな》であった。



底本:「中国の怪談(二)」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年8月4日初版発行
底本の親本:「支那怪談全集」桃源社
   1970(昭和45)年11月30日発行
※「毛の黒い貍のような獣になった」の箇所は、底本では「毛の黒い狸のような獣になった」でしたが、親本を参照して直しました。
入力:Hiroshi_O
校正:小林繁雄、門田裕志
2003年9月29日作成
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