。「なあんだ」
小八はやっと手を離した。女は額の紙を払い除けて極まり悪そうに小八の方を向いた。夜はもう明け放れて薄すらした霧のようなものが四辺《あたり》に漂うていた。
小八は女の顔に注意した。それは壮《わか》い※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な女であった。
「姐さんは、何時からこんなことをやってるんだ」と、小八は笑いながら云った。
「私はこの春から、此方へ売られております」
「他にもお前さんのような者がいるのか」
「それは数多《たくさん》おります。老人《としより》でも小供でも、お客さんの見たいと云う亡者になりますから……」
「面白いなあ」
「何の面白いことがございましょう、私は一生を五十両に売られておりますから、厭でもやらねばなりません」と、女は悲しそうに云った。
小八はたよりなさそうな女の顔をじっと見ていた。
「お願いでございますから、どうぞ今日のことは、お見逃しを願います、私ばかりでない、こんなことが表沙汰になりますと、主人がどんな目に逢うかも知れませんから……」
「……乃公《おいら》は、先月死んじゃった女房に逢いたくなって、江戸からわざわざやって来た者だが、考えてみれば、此方が痴《ばか》さ、やかましく云や、かえって耻さらしだ……」と云って、小八はまた心を女の方に向けて、「どうだ姐さん、お前もこんな処で、幽霊の真似をしていたところで、別に好い芽も出ないだろう、これから乃公と江戸へ往って、いっしょに暮そうじゃないか」
女は厭と云った後の男の怒が恐ろしかった。それに死んだ女房の姿を見にわざわざ江戸から来る程の人だから、悪い薄情な男でもないと云うような考えもぼんやり浮んだ。
「どうだ厭かな」と、小八はあっさりと云った。
「……厭じゃありませんけれども……」女はどうとも決心がつかないので返事ができなかった。
「厭でなけりゃ、これから二人で宿へも知らさないで逃げようじゃないか、宿だって、背後《うしろ》暗いことがあるから、追っかけて来ないだろう」
女はまだ考えていた。
「案内人が迎えに来ないうちに、逃げようじゃないか」と小八は女の手をぐっと握った。
三
亡者宿の案内者は、日の出になったので客を迎いに往ったが、どうしたことか客の姿は見えなかった。不審に思って帰って来て主翁に話をすると、主翁はまた山に精しい者を二人ばかりやって、地獄池のある谷間を隈なく探さしたが、二人の者も見当らないと云って帰って来た。それでは何かまちがいがあったかも知れないと云って、亡者になる人達を置いてある家へ人をやって、亡者になった女を呼ばしたが、その女も家を出たきりで帰らないと云った。いよいよまちがいが出来たに相違ないので、今度は主翁も出て六七人で手を分って谷から谷にかけて探した。
夕方になってその中の一人は、亡者の女の着ていた白衣を拾って来た。その白衣は隣村へ出る谷間の小路の縁に落ちていたのであった。
主翁はもしやと思うことがあったので隣村へ往って探ってみた。村の四辻の榎の下で茶を売っていた老婆が云った。
「今朝、私が起きたところで、壮い男と女が、この前を通って往きましたよ」
主翁は五十両の大金を客に盗まれたように思った。彼は家に帰って客の手荷物を更《あらた》めた。風呂敷包の中には一枚の着がえがあり、床の上には汗まみれになった道中着と脚絆、股引、それから江戸下谷長者町小八という菅笠があった。
客は江戸の下谷長者町の小八と云う者であるらしい。主翁は急に旅装束をして江戸に向けて出発した。
四
夕方、下谷の小八の家では五六人の者が集まって来て酒を飲んでいた。小八の傍には壮《わか》い※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な女が笑い顔をして坐っていた。
小八はその前日帰ったところであった。立山へまで死んだ女房の姿を見に往っていた者が、他の※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]な女を伴れて来たので長屋中の者はみな眼を円くして驚いた。それが仲間の者にも知れたので好奇《ものずき》な者が集まって来たところであった。
小八はまた立山の一件を話して、
「この幽霊が山の上をひらひらと往くじゃねえか」と、云ってきまり悪そうにする女の顔を見て笑った。
「御免よ」と云って庭からぬっと顔をだした者があった。肩に両掛の手荷物を置いた旅人であった。それは亡者宿の主翁であった。小八は一目見て主翁が女のことでかけあいに来たなと思った。小八は一寸困ったがそれと共に金を詐取せられた怒が出て来た。
「手前は亡者宿の主翁だな」
「そうだよ」
「なにしに来やがった」
「其処にいる女を伴れに来たのだ」と、主翁は嘲笑って云った。
それを聞くと仲間の者が惣立になった。主翁は声を立てる間もなく八方から滅茶滅茶に撲られて
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