るならお志しだいでいたします」
 小八は懐の紙入を出してその中から一両出して主翁に渡した。
「これで後の回向も頼みます」
「では、すぐ御膳をさしあげますから、それをおあがりになったら、不浄な心を出さないようにお休みなさいませ、好い時刻にお起し申します」と、主翁はこう云いながら手を鳴らして婢を呼んで膳を急がした。

       二

 小八は飯が済むと直ぐ床の中へ入ったが、肌の柔らかな女の体が傍に在るようで睡られなかった。黒い大きな水みずした女の眼は眼花となって眼前《めのまえ》にあった。
「お客さん、お客さん」と、婢に呼ばれて小八は眼を覚した。
「これからお湯に入って、体をお潔めなさいませ」
 小八は起きて婢の後から湯殿へ往った。白みわたった空には其処此処に星が淋しそうに光って裏口のほうで鶏が啼いていた。宵に入った五右衛門風呂には新しい湯が沸いていた。小八は体を※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》に洗ってあがった。
 室《へや》にはもう膳が来ていた。宵に川魚の塩焼などをつけてあったお菜は皆精進にしてあった。小八の頭はみょうに緊張を覚えた。
 婢が膳をさげて往くと、主翁が入りちがってはいって来た。
「もう案内者も来ておりますから、お出かけなさるが宜しゅうございます」
 小八は風呂敷包の中から着更の単衣《ひとえ》を出してそれを着、手荷物や笠などはその儘にして出かけようとする時、小八の準備《したく》するのを黙って見ていた主翁が口を出した。
「宵にも申しましたとおり、亡者が露われても詞をかけてはなりませんよ」
 小八は頷いて店|頭《さき》へ出た。案内する男はもう提灯に灯を入れて庭に立っていた。主翁や婢も店頭へ来た。
 戸外《そと》は寂然《ひっそり》として風の音もなかった。小八と案内者は提灯の明りを路の上に落しながら、宿の横手から山路を登って往った。谷川にかけた土橋の下では水の音がざざと鳴っていた。二人は黙って歩いていた。不意に嬰児《あかご》の啼くような声をだして頭の上の方で啼く鳥があった。脚下に延びはびこった夏草の中をがさがさと這う音もした。しかし、小八の耳にはそんな物は何も入らなかった。彼は懐しい女房の姿に接することができると云う喜悦《よろこび》と好奇心で一ぱいになっていた。
 路は曲り曲りしていた。路の曲りの樹木の左右に放れた処から見ると、黎明の光を受けて※[#「魚+(「孚」の「子」に代えて「女」)」、第4水準2−93−47]《あざ》れたようになった空の下に、立山の主峰が尖んがった輪廓を見せていた。
 路は大きな谷間の方へ降りて往った。その路を歩いていると池のようになった十坪位の窪地が前に来て、路は其処から右へ折れていた。案内者は窪地の縁に往くと足を止めた。
「此処が立山の地獄でございます、此方へ坐って待っていなさると、むこうの高い処を亡者が通ります」と、案内者は提灯の灯をあげて云った。
 窪地のむこうには薄く篠笹の生えた勾配の緩い岩山の腰があった。小八は案内者の云うとおりになって案内者の持って来た荒薦《あらごも》を敷いて坐った。
「それでは、日の出比になってお迎いに来ます」と、云って案内者は提灯をくるりと廻して帰って往った。
 小八は黙って坐っていた。案内者の提灯の灯は谷のむこうに越えてしまった。小八は背筋がぞくぞくするけれども窪地のむこうにやった眼は動かさなかった。
 夜はますます明けて来て谷の中は微暗かったが、空は明るくなっていた。と、白い物の影が小八の眼にちらちらと映った。白装束をして頭髪《かみ》をふり乱した背の高い女の姿が窪地のむこうの岩山の腰に露われて、それがむこうの方へ往こうとした。小八は眼を見据えた。少し距離があるうえに微暗いので分明《はっきり》としないが、その姿は女房そっくりであった。小八はもう宿の主翁の戒めも忘れていた。彼は起ちあがって窪地の縁を廻って岩山の腰に走って往った。そして、女房の名を口にしながら女の方へ駈けて往った。
 と、そろそろと動いていた女の姿は、急に走るように前の方へ動きだした。小八は狂人《きちがい》のようになって追って往った。彼と女の距離は迫って来た。
 小八は女の体を背後《うしろ》から抱き縮めた。女は小八をふり放して逃げようと悶掻いた。小八は動かさなかった。
 女にはこの世の人のような柔かな感じがあった。
「どうか見逃しくださいませ、見逃してくださいませ」
 と、女はおろおろ声で云って身を悶掻いた。
 小八は眼を瞠って額に三角の紙を張った女の横顔を覗き込んだ。
「私が己《じぶん》でしたことでありませんから、どうか見逃してくださいませ」
「……じゃ、お前は亡者でねえのか」
「亡者宿へ売られておる者でございます」
「なあんだ」小八はばかばかしくもあれば忌《いま》いましくもあった
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