わた》を中へ納めて創口を合わせ、その後で足を包む布で朱の腹から腰のあたりを繃帯して手術を終ったが、榻の上を見ても血の痕《あと》はなかった。朱は僅かに腹のあたりが麻《しび》れるばかりであった。ふと見ると陸の置いた肉塊が案の上にあった。朱は怪しんで、
「それはなんだろう」
 と言って聞いた。陸は、
「それは君の心だよ、君の文章の拙いのは、君の心の毛穴が塞っているためだから、冥途に在る幾千万の心の中から、佳いのを一つ選びだして、君のために易《か》えたからね」
 と言って起ちあがり、扉を閉めて出て往った。朝になって朱は布を解いて見た。創口の縫い目はぴったりと合って糸筋のような赤い痕が残っていた。
 その時から朱の文章が非常に進んで、眼にふれたものは忘れないようになった。数日して朱はまた文章を作って陸に見せた。陸は言った。
「いい、この文章ならいい、だが、君は福が薄いから、大いに名を顕《あらわ》すことはできないが、郷科にはとおるよ」
 郷科とは郷試で、各省で行う試験であった。そこで朱は問うた。
「それはいつあるだろう」
 陸は言った。
「今年あるよ、君はそれに優等で及第するよ」
 間もなく郷試があったので、朱もそれに応じてみると第一等の成績を得、秋の本試験には経元《けいげん》に及第した。朱の同窓は朱の郷試に応じたことを笑っていたが、試験の成績を見るに及んで、皆で顔を見合わして驚いた。そして朱にその理由を聞いてはじめて不思議のあったことを知ったので、朱に紹介してもらって陸と交際したいと頼んできた。その結果陸が承諾してきたので、皆で大いに酒席を設けて待っていた。初更の比になって陸が来た。赤い髯を動かし、目を電《いなずま》のようにきらきらと光らすので、皆が恐れて魂のぬけた人のようになり、歯の根もあわずに顫《ふる》えていたが、座にたえられないので一人帰り二人帰りしていなくなってしまった。朱はそこで陸を伴《つ》れて自分の家へ帰って飲み、既に酔ってから陸に言った。
「君に腸を易えてもらって非常な恩を受けているが、も一つ頼みたいことがある、聞いてもらえるかね」
「どんなことだね」
「君は腸をかえることができるから、顔をかえることもできるだろう、僕の妻は、少年の時から夫婦になっているもので、体はそんなに悪くはないが、いかにも顔が拙《まず》いからね」
 陸は笑って言った。
「いいとも、すこし待っていてくれたまえ」
 それから数日して夜半に陸が来て門を叩いた。朱は急いで起きて往って内へ入れ、燭《あかり》を点けた。見ると陸の懐《ふところ》には何か物が入っていた。
「それは何だね」
 と朱が訊いた。陸は懐から包みを出して、
「君にこの間頼まれたものだよ、ちょいと佳いのがなくて困っていたが、やっと今晩佳い美人の首を手に入れたから、君の頼みをはたすことができるよ」
 と言った。朱がそれを開けて見ると血のべとべとした女の頭であった。陸はそこで、
「早く、早く、急ぐんだよ、そして人を起してはいけないよ」
 と言って居間に入ろうとしたが、夜は入口の扉をきちんと締めてあるので朱は困っていた。と、陸が来て片手で押した。扉は手に従ってしぜんと開いた。そこで細君の寝室へ入った。細君は体を横にして眠っていた。陸は美人の頭を朱に持たして、自分は靴の中から匕首のような刃物を出し、細君の頸にあてがって瓜を切るように切りはなした。頭はころりと枕の傍へ落ちた。陸は急いで、朱の持っている美人の頭を取って切口にきちんと合わせ、そして後ろにしっかりと押しつけたが、これがすむと枕を肩にあてがい、朱に言いつけて細君の頭を静かな所に埋めさせて帰って往った。
 朱の細君はその後で眼を醒ましたが、頸のまわりがすこし麻れて、顔がこわばったような気がするので手をやってみた。するとその手に血がついたのでひどく駭いて、婢《じょちゅう》[#ルビの「じょちゅう」は底本では「ぢょちゅう」]を呼んで盥《たらい》に水を汲ました[#「汲ました」は底本では「汲みました」]。婢は細君の顔が血みどろになっているので驚いて倒れそうにした。やがて細君が顔を洗ってみると盥の水が真赤になった。洗った後で細君が首を挙げると、顔の相好が変っているので婢はますます駭いた。細君は鏡を取って顔を映してみた。見も知らぬ人の顔になっているので駭いてしまった。そこへ朱が入ってきて理由を話した。細君はそれによって顔を映しなおして精《くわ》しく見た。それは眉の長い笑靨《えくぼ》のある絵に画いたような美人の顔であった。領《えり》をすかして験べてみると、紅い糸のような筋がぐるりに著いて、上と下との肉の色がはっきりと違っていた。
 その時|呉侍御《ごじぎょ》という者があって、美しい女《むすめ》を持っていたが、二度も許婚《いいなずけ》をして結婚しないうちに夫になる人
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