女の顔をはっきりと見たいという好奇心があるのでそろそろと眼をあげた。黒い潤みのある女の眼がじっと自分の方を見ているのにぶっつかった。許宣はあわててまた眼をそらした。
「あなたは、どっちにお住居でございます」
女は執著を持ったような詞《ことば》で言った。許宣のきまりのわるい思いはやや薄らいできた。
「過軍橋の黒珠巷です。許という姓で、名は宣と言います、あなたは」
「私は白と申します、私の家は白三班《はくさんぱん》で、私は白直殿《はくちょくでん》の妹で、張という家へ嫁いておりましたが、主人が没《な》くなりましたので、今日はその墓参をいたしましたが、こんな雨になって、困っているところを、お陰さまでたすかりました」
「そうでしたか、私の両親も早く没っておりますので、今日は保叔塔寺へ往ったところで、この雨ですから、舟を雇おうと思って、来て見ると知合いの舟がいたので、乗ったところでした、ちょうど宜しゅうございました」
舟は府城の城壁に沿うて南へ南へと往った。絹糸のような雨が絶えず笘屋根の外にあった。
「家を出る時は、好いお天気でしたから、雨のことなんか、ちょっとも思わなかったものですから、困ってしまいました、ほんとにありがとうございました」
小婢が主人の横脇でもそもそと体を動かす気配がした。
「私も姐の家に世話になって、日間は親類の薬舗へ勤めておりますので、暇をもらって、やっぱり雨のことは考えずに、来たものですから、ひどい目に逢いました、皆、今日は困ったでしょうよ」
許宣は気もちをいじけさせずに女と話すことができた。
舟はもう湧金門の外へ来ていた。小さな白い雨は依然として降っていた。女は何か思いだしたように自分の体のまわりをじっと見た後で、小婢の耳へ口を著けて小声で囁いて困ったような顔をした。と、小婢の眼元が笑って女に囁きかえした。それでも女は困ったような顔をしていた。
「あのね、なんですが」
小婢の顔が此方を見た。許宣は何事だろうと思った。
「今朝、家を出る時に、急いだものですから、お銭《あし》を忘れてまいりました、誠に恐れ入りますが、どうか船賃を拝借させていただきとうございますが、家へ帰りましたなら、すぐお返しいたしますが」
「そんなことはいいのですよ、私が払いますから」
舟はもう水際へ著いていた。女はきまりわるそうにもじもじしていた。
「さあ舟が著きました、
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