詣りしたいと思います、一日だけお暇をいただきとうございます」
清明の日には祖先の墓へ行って祖先の冥福を祈るのが土地の習慣であるし、両親のない許宣が寺へ往くことはもっとものことであるから、李将仕は機嫌好く承知した。
「いいとも、往ってくるがいい、往ってお出で」
そこで許宣は舗を出て、銭塘門《せんとうもん》の方へ往った。初夏のような輝《ひかり》の強い陽の照る日で、仏寺に往き墓参に往く男女が街路に溢れていた。その人びとの中には輿《よ》に乗る者もあれば、轎《きょう》に乗る者もあり、また馬や驢《ろば》に乗る者もあり、舟で往く者もあった。
許宣は銭塘門を出て、石函橋《せっかんきょう》を過ぎ、一条路《ひとすじみち》を保叔塔の聳えている宝石山へのぼって寺へ往ったが、寺は焼香の人で賑わっていた。許宣も本堂の前で香を燻《くゆ》らし、紙馬《しば》紙銭《しせん》を焼き、赤い蝋燭に灯を点《とも》しなどして、両親の冥福を祈った。そして、寺の本堂へ往き、客堂へあがって斎《とき》を喫《く》い、寺への布施《ふせ》もすんだので山をおりた。
山の麓に四聖観という堂があった。許宣が四聖観へまでおりた時、急に陽の光がかすれて四辺《あたり》がくすんできた。許宣はおやと思って眼を瞠《みは》った。西湖の西北の空に鼠色の雲が出て、それが陽の光を遮っていた。東南の湖縁の雷峯塔のあるあたりには霧がかかって、その霧の中に塔が浮んだようになっていた。その霧はまだ東に流れて蘇堤《そてい》をぼかしていた。眼の下の孤山は燻銀《いぶしぎん》のくすんだ線を見せていた。どうも雨らしいぞ、と思う間もなく、もう小さな白い雨粒がぽつぽつと落ちてきた。許宣は四聖観の簷下《のきした》へ往って立っていたが、雨はしだいに濃くなってきて、雨隙《あますき》がきそうにも思われなかった。空には薄墨色をした雲が一めんにゆきわたっていた。許宣はしかたなしに鞋《くつ》を脱ぎ襪《くつした》も除って、それをいっしょに縛って腰に著《つ》け、赤脚《はだし》になって四聖観の簷下を離れて走りおりた。
許宣は湖縁から舟を雇うて湧金門《ゆうきんもん》へまで帰るつもりであった。不意の雨に驚いて濡れながら走っている人の姿が、黒い点になってそこここに見えた。湖の中にも小舟が左に右にあたふたと動いていた。それは皆俗に杭州舟と言っている笘《とま》を屋根にした小舟であった。その小
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