るひ》住持は檀家《だんか》の待夜《たいや》に招かれたので、名音も其の供をして往《い》ったが、意外に手間取って帰ったのは夜の十二時過ぎであった。住持は直ぐに寝室に入ったが、名音は便所へ往きたくなったので、土間続きの便所へ往って、帰りに手を洗おうとしたところで、自分の傍を通り抜けた者があった。名音はぎょっとして其の方へ眼をやった。鼠色の法衣《ころも》を着て腰に太い紐を巻いた法華僧の背後《うしろ》姿が見えた。名音は驚いて声をかけようとした。其の瞬間、法華僧は縁側へあがって往ったが、それは影の動くようでやがてぱっと消えてしまった。名音は変だから続いて縁側へ駈けあがって、室々《へやへや》の障子を開けて見たが怪しい男の姿は見えなかった。名音は鬼魅《きみ》が悪いので自分の室へ入るなり寝床の中へもぐりこんだ。しかし、法華僧が気になって容易に眠られなかった。
 翌朝《あくるあさ》になって名音は、平生《いつも》のように起きて朝の礼拝を終り、前夜のことを住持に話そうと思っていると、玉音が急に緊張した顔になった。
「あなたは昨夜《ゆうべ》、何か変った物を御覧になりませんでしたか」
「変ったもの」
 名音はすぐ法華僧の事を思いだした。
「法華僧ですか。見ましたよ、あれを御存じ」
 名音の声は刺々《とげとげ》しかった。
「では、とうとう御覧になりましたね」
「見ましたよ、あれは貴女《あなた》の何ですか」
「では何も彼《か》も一切お話しいたします」
「では、やっぱり、彼《あ》の人は、貴女の」
「そうですよ。でも、もう此の世の人でありませんから」
「まあ」
「私は罪の深い女でございます。私は死ぬほどの苦しみを受けなくてはなりません」
「では病気ではないのですね」
「死霊《しりょう》の祟《たたり》でございます。私はどんなに後悔しているか知れません」
 玉音は地主の娘に生れて従兄弟《いとこ》の弁護士と結婚した。夫婦の間には二人の娘まで出来て、家庭は至極円満であったが、ふとしたことから囲碁に興味を持って、素人|碁客《ごかく》の間では評判になるようになった。そうなると、自分の家ばかりでは満足ができなくなった。彼女は碁会でもあると出かけて往って、終日帰らない事があった。
 恰度《ちょうど》其の比《ころ》、旦那寺の住職が変って新住職が挨拶に来た。新住職は三十四五の色の白い男で、愛碁家らしいので、早速対局してみると、素人碁客ではあるが彼女よりは遥に強かった。新住職に興味を感じた彼女は、翌日寺へ出かけて往って対局した。結果はやはり前日と同じであった。そこで彼女は、どうかして住職を負かしたいと思って、熱心に研究しながら毎日寺へ通うようになった。時によると朝出かけて夜遅くまで帰らないことがあって、家庭に風波《ふうは》が起った。
 某日《あるひ》彼女と良人《おっと》との間に、平生《いつも》のような口論があった結果《あげく》、彼女は良人に撲《なぐ》りつけられた腹立ちまぎれに、家を飛び出して其の夜は寺へ泊ってしまった。翌日|家《うち》へ帰ってみると家は空家になっていた。彼女の良人は彼女に愛想をつかして、娘を伴れて何処かへ往ってしまっていた。彼女は今更実家へも帰られないので、其のまま寺へ転げこんだ。
 彼女の心はすさむ一方であった。彼女は不在|勝《がち》な住職の眼を忍んで、其の寺に同居していた若い青年画家と戯《たわむ》れた。それが住職に知れかかると、住職の不在中、寺の道具や金目な物を売払って、其の青年画家と駈け落ちした。其のことは直ぐに檀家に知れて大問題となり、住職は女に裏切られた苦しさと、厳しい檀家の糺問《きゅうもん》に耐えかねて縊死《いし》した。
 青年と駈け落ちした彼女は、夜になると住職の怨霊《おんりょう》に悩まされた。それと見た画家は女の金を奪って姿を晦《くら》ましてしまった。
 彼女は旅館で自殺を計ったが、果さなかった。そして、彼女は其の事を知って駈けつけた弟の家へ引き取られて、それから尼になったものであった。
「私は幾度《いくたび》、自殺を計ったか知れませんが、罪が深いと見えまして、どうしても死ねないのでございます」
 名音は其の事を住職に話して玉音のために祈祷《きとう》してやったが、玉音の苦しみは去らなかった。そして、一ヶ月ばかりの後に発狂してしまった。名音はそれを私に話した後でこう云った。
「其の後、玉音さんは、弟の家へまた引き取られたそうですが、恐らく彼《あ》の病気は癒らないでしょう。こうしておりましても、玉音さんの彼《あ》の苦しそうな声と、無鬼魅《ぶきみ》な法華僧の姿が眼の前に浮んで来ますよ」[#地付き](玉谷高一氏談)



底本:「怪奇・伝奇時代小説選集3 新怪談集」春陽文庫、春陽堂書店
   1999(平成11)年12月20日第1刷発行
底本の親本:「新怪談集
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