法華僧の怪異
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)掖上村《わきかみむら》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)奈良県|吉野郡《よしのぐん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き](玉谷高一氏談)
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 奈良県|吉野郡《よしのぐん》掖上村《わきかみむら》茅原《かやはら》に茅原寺《ちげんじ》と云う真宗の寺院があった。其の寺院は一名|吉祥草院《きっしょうそういん》。其処に役行者《えんのぎょうじゃ》自作の像があって、国宝に指定せられているが、其の寺院に名音《みょうおん》と云う老尼がいた。
 私が其の名音に逢《あ》った時は、昭和三年で六十位であった。其の名音は、最初|泉《いずみ》の某と云う庵にいて有徳の住持に事《つか》えていた。
 名音が尼僧になったのは、中年になってからで、其の動機に就《つ》いては、小説にでもなりそうな哀話があるということだが、それに就いては語らなかった。
 名音が泉の尼寺へ入って二度目の秋を迎えた時のことであった。某朝《あるあさ》平生《いつも》のように朝の礼拝を終って境内の掃除をしていたが、庭前に咲いた萩の花が美しいので、見るともなしに見ていると、近くの旅館から来た散歩客とでも云うような来客があった。それは三十二三の男と三十七八の女であったが、男は大島の着流しでステッキを突き、女は錦紗《きんしゃ》づくめの服装をしていた。
「早朝から恐縮ですが、住持様《じゅうじさん》は、もうお眼覚めでしょうか」
 男は其のくだけた服装にも似ず、態度や詞《ことば》つきが丁寧であった。名音はこんなに早くては住持様が迷惑するだろうと思ったが、男の態度に好感が持てたので、住持に取りついだ。住持は名音を信用しているので、すぐ二人を客間へ通した。二人は兄弟で女は男の姉であったが、家庭の事情で尼になりたいと云うのであった。
「一口に尼になりたいとおっしゃっても、それは容易なことではありませんからな」
 住持は痛ましそうに女の方を見た。其の時まで何も云わずに俯向《うつむ》いていた女が、初めて顔をあげて住持を見た。
「それはよく存じておりますが、私は尼になるよりほかに、救われる道がございません。どんな苦行でも難行でもいたします、どうかお弟子にしてくださいませ」
 女の弟はそれに続けて云った。
「私も幾度も思いとまらせようといたしましたが、よほど思いつめておりますから、どうか人間一人を助けると思って、曲げてお許しを願いたいと思います」
 住持はどうしたものだろうかと云うような表情をして名音を見た。名音はそれほど思いつめるには、よほど苦しい過去を持っているに違いないと思って、すっかり女に同情してしまった。
「住持様、あんなにおっしゃいますから、肯《き》いておあげになっては如何《いかが》でございます」
「そうじゃな、それでは、こうして頂きましょう。今夜もう一度お考えなすって、それでも決心が変らなかったら、明日改めてお出《い》でを願いましょう」
 それを聞くと二人は喜んで帰って往ったが、翌日になって女が移って来たので、住持が最初|鋏《はさみ》を入れ後は名音の手で剃髪《ていはつ》した。其の女は玉音《ぎょくおん》という法名が与えられた。名音は何彼《なにか》と新入の玉音のために世話をしてやった。玉音は顔だちも美しく素直な女だったので、住持にも気に入られた。名音は此の調子でゆけば、世話の為甲斐《しがい》があると思って喜んだ。こうして数日すぎたところで、夜半比《よなかごろ》になって玉音が急に苦しみはじめた。一所《いっしょ》に寝ていた名音は驚いて躍《と》び起きた。玉音は両手で虚空《こくう》を掴《つか》み歯を喰いしばって全身を痙攣《けいれん》させた。そして時どき苦しそうな声を出して呻《うめ》いた。隣室に寝ていた住持も其の声を聞きつけて起きて来た。二人の介抱で玉音の苦しみはすぐ治まった。
「どうなされた、お肚《なか》でも痛まれたか」
 住持の詞《ことば》に玉音は蒼褪《あおざ》めた顔をちょっと赧《あか》らめた。
「お肚ではございませんが、これが私の持病でございまして、私はこれがあるばかりに、御仏《みほとけ》にお縋《すが》りする気になったのでございます」
「御仏も御仏じゃが、医者にかかられては」
「医者にもかかりましたが、此の病気ばかりは、医者の力では駄目でございます」
「ほう、では、お医者様にも病名はわからぬのじゃな」
 玉音は黙ってうなずいた。名音は其の病気には何か訳がありそうだと思ったが、強いて聞くこともできなかった。玉音は其の夜をはじめとして毎夜のように苦しんだ。名音は其の度に眼を覚まして介抱したが、しだいに慣れて後には玉音の苦しむのも知らずにいるような事があった。
 某日《あ
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