意に旋風が起って、村の百姓屋の物置小屋を捲きあげて春日川の川中へ落した。山から薪を着けて来た一疋の黄牛《あめうし》が、その旋風に捲きあげられて大根畑の中に落とされた。
「これは、どうしてもただごとではない、きっと怖ろしいことの前兆じゃ」
「怖ろしいことじゃ、怖ろしいことじゃ、これは何かの祟りじゃ」
 それから四五日経った。朝から降っていた雨は夕方から風が添うて、怖ろしい暴風雨となり一晩中荒れ狂った。その暴風雨の中に山崩れがして、三軒の農家が埋まったが幸いに死傷はなかった。
「ますます不思議じゃ、どうしても、これは何かの物怪《もののけ》じゃ」
「これは、早く払わないと、このうえ、どんな事があるかも判らない、困ったことになったものじゃ」
「監物殿が、戸波の寺から、不動様を持って来たから、それからじゃ」
「どうも不動様の祟りらしいぞ」
 監物の耳にこうした噂も伝わってきた。彼はこの噂を聞いて冷笑した。
 その翌々晩、某《ある》臣《けらい》の家の酒宴《さかもり》に招かれた監物は、夜遅く一人の若党に提灯を持たして、己《じぶん》の邸の傍まで帰って来たところで、祝い物を入れて往った布呂敷包を忘れたことを思い出したので、若党に執りに往かし、己は暗い道を邸のほうへあがって往った。寒い冷たい風が酒に火照った頬に当った。門の建物に近づいたところで、怖ろしい物の気配がして一抱位ある火の光が赫《かっ》と光った。かと思うとそれが末拡がりに監物の顔にかかった。それは身の丈が一丈ばかりもある怪物の口から吐く焔であった。黄金色をした両眼もぎらぎらと爛《かがや》いた。監物は腰の刀を抜いて怪物を目がけて斬りつけた。どたりと物の崩れる音がして怪物の姿は消えてしまった。
「明りを、明りを、早く、明りを」
 監物はそう云いながらも刀を正眼にかまえて少しも油断しなかった。人の駈け歩く跫音《あしおと》がして小門の戸をがたがた云わせながら、手燭を持った男の顔が現れた。
「旦那様」
 監物は手許の光に眼を止めた。
「甚六か、此処だ、怪物を仕留めた」
 臣《けらい》は手燭を高くあげながら監物の傍へ寄って来た。監物は刀を隻手に持ち代えてそれで指し示した。不動の木像を乗せた台が倒れて木像のみは依然として立っていた。手燭の光は台の端板へ斬り込んだ監物の刃の痕を照らした。
「どうなさいました」
 臣は不審して監物の顔を見た。
「うん」
 監物は不動の木像を見詰めて立っていた。と、その時であった。ばらばらと云う怪しいものの弾ける物音が裏山の方でしはじめた。続いて人の叫ぶ声がした。邸の裏の山林が火を発したところであった。真紅な火は裏山の空に燃えあがって、その焔が風に吹かるる秋雲のように西に東に切断《きれぎれ》に飛んだ。
「旦那、大変、大変じゃ」
 臣は手燭の火を落して叫んだ。監物は刀を投げ捨てた。
「甚六、この不動様を戸波へ戻しに往け」
「あれ、あれ、旦那、山火事でございます」
 監物の耳へは何事も入らなかった。監物は唸るように云った。
「甚六、甚六、早く不動様を戸波へ戻しに往け」
 山林の火は四方へ燃え拡がって山の畝《うね》りをはっきりと映しだした。
「甚六、早く往かんか、甚六」
 監物の声はうわずって聞えた。

 不動尊の木像はその夜のうちに戸波の積善寺に返して、薬師堂の中へ元のように納めた。そして、その勢では附近の山林を焼き尽さねば休《や》まないように思われた山火事は、案外僅かばかりの焼けかたでこともなく消えてしまった。

       余話

 大正九年八月某日、土佐を漫遊していた桂月翁と私は、戸波の青年に招かれて須崎と云う海岸町から戸波の家俊へ往った。それは虚空蔵と云うつくね芋の形をした、土佐では人に知られた山に驟雨のくる日であった。
 登山の好きな桂月翁は、青年に伴《つ》れられてその山へ二日続けて登ったが、不精者の私は旅館の二階に寝ころがって俳句などを考えていた。その桂月翁が最初に登山した時、「面白い薬師堂へ往って来たよ」と、飯の時に私に話してくれた。で、私もその翌日の朝、桂月翁が小学校の講演をすまして二度目の登山をした後で、三人の学生に案内してもらって、稲の穂の黄色くなりかけた田圃の間を通ってその薬師堂へ往った。小さな丘陵の麓のなだれになった処にその祠があった。その辺は積善寺の寺の名がそのまま残って積善寺部落と云われていた。
 祠の中の縁起を書いた脇立《わきだて》は、其処から右の方の山の下に見えていた建物の大きな豪家にあるので、其処から持って来て見せてくれると云うことになっていたから、私達は祠の縁に腰を掛けて煙草を喫みながら話していた。県会議員をしていると云う有志の一人が檮《いちい》の木で作った脇立と、隣村の城主の一族で長宗我部に滅されて其処で自殺したと云う武士の位牌を持って来
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