役人の表座敷には遅くまで灯が灯って、監物一行が酒の饗応《ちそう》になっていた。
「彼《あ》の時の坊主の顔と云ったら、なかったぞ」
 酔の廻った監物はこう云って床の間の方を見た。微暗い蝋燭の光を受けて不動の木像が立っている。
「坊主にはちと気の毒であったが、彼の不動奴、ちょっと面白い恰好じゃないか、なるほど、運慶か湛慶であろうよ」
 その時監物の耳に怪しい物の音が聞えた。監物は耳をかたむけた。
 とん、とん、とん、とん、……
 それは陣太鼓の遠音であった。
「彼の音が、彼の音が聞えるか」
 監物は右の手をあげてその手の掌で、皆の呼吸《いき》を押しつけるようにした。
「聞えるか」
 臣《けらい》の耳には裏山の林に吹きつける風の音が聞えるばかりであった。
「何も聞えません」と、臣の一人が云った。
「そうか、俺の耳には陣太鼓の音が聞えたが」
 監物はまた耳をすましたが風の音より他にもう何も聞えなかった。
「陣太鼓のように思ったが、空耳であった、考えてみれば今の世に、陣太鼓の鳴ることもないて」
 監物は忌いましそうな顔をして、膳の上の盃を執ってぐっと一呼吸《ひといき》に飲んで、また不動の方に眼をやった。赤い紅蓮《ぐれん》のような焔が不動の木像を中心にして炎々と燃えあがって見えた。
「あ」
 監物が驚いて声をたてた時には、焔の光は無くなって床の間は元のように微暗い蝋燭の光が弱よわと射していた。監物は眼の勢《せい》であったなと思った。朝になって皆が手水を使って朝飯の膳に向ったところで、臣の一人が隣にいた朋輩の一人に話しかけた。
「昨夜、おかしな夢を見たよ」
「どんな夢じゃ」
「どんな夢と云うて、それは不思議な夢じゃよ、背の高い色の煤黒い、大きな男が、空中を馬に乗って、俺の傍をぐるぐると飛び歩いたが、その男の体からは、一面に真紅な火が燃えていて、物凄かったよ」
「なに、火が燃えていた、俺も火の夢を見たよ、なんでも俺が歩いていると、火の団《かたまり》が、其処からも此処からも、一面に飛んで来るので、俺はその火に触るまいと思うて、彼方によけ、此方によけ、それをよけるに困ったよ」
 二人が話をしているのを傍にいた朋輩の一人が聞いて、
「火の話をしておるが、俺も不思議な夢を見たよ、一人で野原を歩いていると、足をやる処が皆火になって、どうしても歩けない、何処か火のない処はないかと思うて、逃げ廻っておると、小さなお堂が見える、其処へ逃げて往って見ると、不動様が立っておった。夢はそれで覚めたが、何しろこれまで見たことのない夢であったよ」
 その話はきれぎれに監物の耳に入った。監物は厭な顔をした。彼は体から火の炎々と燃えている奇怪な男に、終夜追いかけられた夢を見ていたのであった。
 監物は己《じぶん》の邸へ帰ると、門の脇に台を作ってその上に積善寺から執って来た不動の木像を据えた。
 監物は藩主の一族で三万石の領地を受けて、藩の家老格に取扱われている者であったが、至って片意地の強いきかぬ気の男であったから、村役人の家の怪異なども別に気に懸けなかったが、それでも心の何処かに一点のしみを残していた。
 その日は初冬の空が晴れて黄色な明るい日が射して、空が碧《あお》あおと晴れており、夕方の空には星が一面に散らばって、静で穏かな一日の終りを示していた。ところで監物が酒の後で飯を喫おうとした比《ころ》から、急に大きな雷鳴が始まった。蒼白い物凄い電光がぎらぎらと雨戸の隙間から眼を眩まして射し込んだ。監物は思わず茶碗を執り落した。続いて大きな雨が激しい音を立てて降って来た。雷は続けざまに鳴りはためいた。その雷の響が凄じく附近の山やまに木魂を返した。電光もひっきりなしに物凄く燃えた。
 雷雨は一時ばかりも続いてけろりと止んでしまった。監物が便所へ往った時に見ると、空は宵のように一面の星であった。翌日になって村の人は不思議な雷鳴《かみなり》について語りあった。
「雷鳴の最中には、監物殿のお邸のうえのあたりから、火の団《かたまり》が、四方八方に飛び散った」
「何しろ不思議な雷鳴じゃ」
 監物の耳にこんな話が聞えて来たが、彼は別になんとも思わなかった。
 それから三日ばかりすると何処ともなしに不思議な音がしはじめた。それは地の底でもなければ谷の間でもない。またそれかと云って空中でもないが、不思議などうどうと云う譬えば遠い海鳴か、山のむこうの風の音とでも云いそうな音が、その日の朝明け比から始まってその日は終日聞え、夜になってもまだ聞えていたが、何時の間にか止んでしまった。
「一体、あの音は何だろう」
「この間の雷鳴《かみなり》と云い、不思議なことじゃ」
「俺は七十になるが、まだこんな不思議なことに逢ったことはない、奇体なことじゃ、これは何かの兆《しらせ》と思われる」
 その翌日の昼比不
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