用人は霧の深い谷間にいるような気になっていて気がつかなかった。
「だから、これから、お前さんの心配も無くなるわけだ」
 用人はその詞《ことば》を聞くとなんだか肩に背負っていた重荷が執れたような気がした。
「では、あなた様は、これから何方《どちら》へお移りになります」
「私《わし》の往くさきかの、往くさきは、隣の――の邸さ」
「え」
「其処へ移るまでに、すこし暇ができたから、越谷にいる仲間の処へ遊びに来たが、明日はもう移るよ」
 用人はその名ざされた家のことを心に浮べた。
「お前さんが嘘と思うなら、好く見ているが好い、明日からその家では、病人ができ、借金ができて、恰好《ちょうど》お前さんの主人の家のようになるさ」
「え」
「だが、これは決して人にもらしてはならんよ」
「はい」
「じゃ、もう別れよう」
 用人がはっと気がついた時にはもう怪しい旅僧はいなかった。其処はもう越谷になっていた。

 用人は知行所へ往ったが、度たび無理取立てをしてあるのでとても思うとおりにできまいと心配していた金が、思いのほか多く執れたので、貧乏神の教えもあるし彼は喜び勇んで帰って来た。



底本:「日本の怪談」
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