とを申しあげてはならんぞ」
為作の頭はその時何かに持ちあげられるようになってふいとあがった。たくさんの小さな沢蟹が紫がかった鋏をあげてぞろぞろと来るところであった。為作はまたべったりと頭を地べたにつけた。
「もったいない、もったいない、こんなもったいない目にあっては、この老人《としより》の命を、たった今召されても惜しくはありません、神様もったいのうございます」
為作の感激に充ちた詞《ことば》は忽ち遮られた。
「この老いぼれ犬、どうも素振りが怪しい怪しいと思っておれば、こんな処でばてれんをやってけつかる」
為作は顔をあげた。其処には前夜の林田が二人の男を伴れて立っていた。林田は前夜の復讐をかねて女を奪いに来たところであった。
「江戸から来ておる花魁《おいらん》あがりが、てっきりばてれんを持って来たにちがいない、すんでのことに、昨夜《ゆうべ》はばてれんの蟹の鋏で、この大事の眼を、衝き刺されるところであった」
為作はそれよりも神の奇瑞に心を奪われていた。為作はそのまま頭を地べたにつけたのであった。
「お諏訪様、もったいのうございます、誠に何とも申しようがございません、お諏訪様、どうかお引とりを願います」
林田は伴れて来ている二人の男を見て嘲笑った。
「何処にお諏訪様がおるのじゃ、孔夫子は、怪力乱神を語らずと云われた、今の世の中に、神なんかが出て来てたまるものか、今の世にばてれん以上に、怪しいものはない、この比、ばてれんが無うなって、蜃気楼《かいやぐち》もあまり立たないと思うておりゃ、またばてれんをやりだした」
「もったいない、もったいない、お諏訪様を拝んでおります、お前さんがたの曲がった眼には見えますまいが、孫の眼には見えます、そんなことを云うと罰があたります、お諏訪様もったいのうございます」
林田に随《つ》いて来ている一方の男が云った。
「へっ、そんな鳥の巣のような箱の中に、神様がおってたまるものかい」
泰然と坐って傍視《わきみ》もせずに前の方を見ていた源吉が云った。
「お諏訪様は、其処にいるのだよ、蟹を伴れて来ているのだよ」
「何処におる、この寝ぼけ小僧」
林田が叱りつけるように云って前へ一足出た。
「其処にいるのだよ」源吉は静に一間ばかり前に指をさした。
「今輪になっているのだよ」
「寝ぼけ小僧、何を見てそんなことを云う、地べたに草が生えているより他に何がある」
「お祖父さんも見えないというから、お前さんも見えないだろう、顔を洗ってくるがいいや、お諏訪様は白い蛇になっているのだよ」
「ほんとうにおると云うなら、俺がこの足で踏み潰してやる」
林田はそのまま進んで源吉の指をさしている辺《あたり》をぐさと踏んだ。
「お諏訪様が、足に巻きついた」
源吉の詞と同時に林田はあっと云う叫び声を立てながら、毬を投げたように為作の鼻の前をくるくると転げて往った。
五
お勝は牧野の主人の治左衛門に送られて牧野家から帰っていた。それは前夜の事件を話して舅の迎いに来てくれるのを待っていようとすると、治左衛門が月が良いから月を見ながら送ってやろうと云うので、しかたなしに送ってもらうことにしたのであった。
二人は人家を離れて畑路に入ったところで、治左衛門がおずおずした詞《ことば》で思いがけないことを云いだした。
「お勝殿、わしが今晩、お前を送って来たのは、すこし聞いてもらいたいことがあったからじゃ」
「はい」
「わしは、お前と小供の世話をしたいと思う、お前も知ってのとおり、わしは三年前に妻室《かない》に死なれて、親類や知人《しりびと》から後妻を勧められたが、小供に可哀そうじゃからと、どれもこれもことわって今日まで来たが、お前がわしの家に手伝いに来てくれてから、その決心がにぶって来た」
お勝は困ってしまった。
「どうかわしに、世話をさしてくれ、小供はきっと立派な者にしてみせる、為作老人もお前に代って、一生不自由なく世話をしてみせる」
「はい」
「わしは、神に仕える地位《みぶん》じゃ、決して嘘いつわりは云わん」
「それは、もう、お志のほどはよく判っておりますが、これは私の一存にはまいりませんし、それに私は賤しい身分でございますから」
「それはかまわない、わしはお前の素性も聞いて知っておる、わしは、それも承知のうえじゃ、人の魂は、その人の心がけしだいで清められる、どうかわしの世話になってくれ」
「それはもう、旦那様のお志のほどは判っておりますが、まだつれあいが亡くなって一年にもなりませんし、私はそんなことは一切考えないようにしております」
「それは、わしにも判っておる、わしもまだ云う時ではないと思うたが、昨夜のようなことがあって、お前の心が他へそれるようなことがあっては、とりかえしがつかんと思うから」
「ありがとうございます」
二人はその時畑路の岐路《わかれみち》の処へ来ていた。その路を右に往くと諏訪神社のある草原で非常に近かった。二人は路の遠近のことは思わなかったが、そうした姿や話を村の人に見られ聞かれしたくないのでそのまま草原の方へ往った。松や榎の木立が月の下に隈をこしらえていた。
「お勝殿、お前の返事を聞かしてはくれまいか」
「はい」
お勝が返事に困った時、むこうの方で騒がしい人声が起った。
「何かある」
治左衛門はもうその話を続けることはできなかった。彼は二人で其処へ駈けつけることは憚られたが、お勝に対して躊躇することができないので、平気をよそおうて歩いて往った。
祠の前には為作と源吉が立ち、その前《さき》の草原の外には冷たくなった林田の体を二人の男が引起そうとしていた。
六
地下浪人の林田がお諏訪様の蛇を踏んで死んだという奇怪な噂が広まるとともに、町の人の諏訪神社に対する尊崇の念が高まって来て、祠を改築して高壮な社殿にすることになったが、それには諏訪神社の思召《おぼしめし》にかなっている小供の身内の者が良いと云うことになって、為作が棟梁になって建築にかかった。
源吉はその建築の最中でも、お諏訪様と遊ぶことがあった。
社殿はその年の歳末になって落成したので、遷座式を行うことになった。神主は初めから係りあいになっている治左衛門であった。
その日拝殿の正面には、神主の治左衛門が祭壇の方に向って坐り、そのすこし後に源吉が為作に伴れられて坐っていた。そして、町の頭だった人達は拝殿の昇口《あがりぐち》の方を背にして頭を並べていた。
時刻が来ると治左衛門が祝詞《のりと》をはじめたが、その声が切れてしまった。町の人達は不思議に思った。と、源吉が云った。
「あ、牧野の旦那の首に、お諏訪様がいらあ」
拝殿の中はしんとなった。その時治左衛門の体は背後《うしろ》向きになった。
「私の心に穢れがあって、明神の思召にかなわない、今日からこのお社の神主は、源吉殿にやらして、私が後見することにします」
そこで源吉は治左衛門の被《き》ていた水干を被て祭壇の前に据えられた。
この少年神主は、その後も時どきお諏訪様と拝殿の前で遊んだが、町の人は其処に沢蟹の群や蛙の群を見ることがあった。
底本:「日本の怪談(二)」河出文庫、河出書房新社
1986(昭和61)年12月4日初版発行
底本の親本:「日本怪談全集」桃源社
1970(昭和45)年初版発行
※「此処で遊んでた小供が云ったよ」は、底本では「此処で遊んでた小供が去ったよ」となっていますが、親本を参照して直しました。
入力:Hiroshi_O
校正:門田裕志、小林繁雄
2003年7月24日作成
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