出て来てくださるとも」
「そう」
為作の家は麦畑の間を芦垣で仕切った小家であったが、それでも掘立小屋と違って、床の高い雨戸もきちんと締るようになった家であった。為作は源吉を囲炉裏の傍へ坐らして、自在鉤にかけてある鍋の中から夕飯を盛って喫《く》わした。為作は徳利の酒を注いで飲みだした。囲炉裏の火はちらちらと燃えて、為作の翁の面のような顔を浮きあがらした。
「さあ、うんと喫わんといかんぞ、うんと喫って大きくなってくれ、お前は何になる」
「あたいは侍になるのだ」
「ほう、侍になるのか、侍になって扶持を頂戴するなら、こんな旨いことはないが、侍はまかり間ちがえば、腹を切らにゃいかんが、腹が切れるか」
「切れるよ、腹なら」
「そうか、そいつは豪《えら》い、人は心がけ一つじゃ、侍でも、学者でも、お坊さんでも、神主でも、やろうと思や何でもできる、神主と云えば、牧野の旦那は豪い神主じゃ、お前のお母は慧《りこう》で、気が注《つ》くから、牧野さんで眼をかけてくだされる」
「おっ母は何時戻る」
「もう、おっつけ戻るぞ、夕飯を牧野の旦那が召しあがったら、戻って来る、牧野の旦那は豪い方じゃ、お前に云うても判らんがの」
源吉が箸を置いたところで人の跫音がして入って来た者があった。
「今晩は」
「今晩は」
為作は盃を持ったなりに月の射した縁側の方を見た。四十位の男と三十位の男の顔があった。
「秀と金次か、何か用か」
為作の詞《ことば》にはあいそがない。秀と云う四十男はきまり悪そうな笑い方をした。
「べつに、そう用もないが、話しに来た」
「そうか、明日の家業にさしつかえなけりゃ、話していけ」
二人はちょっと顔を見合して何か云いあいながら腰をかけたが、今度は金次と云う三十男が云った。
「小父さん、仕事はどうぜよ」
「仕事か、飯が喫えんから、あるならするが、この年になっちゃ下廻りの仕事しかできん」
「俺の家にも、納屋を建てたいと云うて、せんから云いよるが」
「銭が出来たら建てるもよかろ、大工なら、善八でも喜六でも、腕節の達者な大工が何人でもある」
「小父さんはできんかよ」
「できんことはあるまいが、年が年じゃ、何時死ぬるやら判らん、受けあいはできんよ」
為作の詞は何処までもぶっきらぼうであいそがない。金次は笑うより他にしかたがなかった。
「姐さんは、まだ戻らんかよ、源吉が独りのようじゃが」
秀がそれとなしに云った。
「戻りとうても戻れんじゃろう、遊びに往ちょるじゃないから」
「そうじゃ、のうし」
秀も後へ続ける詞がなかった。二人は手持ぶさたになったので帰って往った。為作は舌打ちした。
「野良犬どもの対手に、飼っている嫁じゃないぞ、何をうろうろしに来る」
源吉は腹這いになっていた。
「もうお母も戻って来る、もうすこし起きておるがええ」
為作は飯にしていた。と、女の叫び声が聞えて来た。為作は箸をぴたり止めた。
「はてな」と、云って耳を傾けた為作の耳へまた女の叫び声が聞えて来た。「ありゃあ、嫁の声じゃ、畜生、源吉は家におれ、外へ出ちゃいかんぞ」
為作はそう云い云い起ちあがるなり土間へおりて、壁へ立てかけてあった枴《おうこ》を持って戸外《そと》へ出た。源吉はびっくりして起きあがり室《へや》の中をうろうろ歩いた。
三
お勝は月の下で背の高い一本の短い刀を差した暴漢に帯の端を掴まれていた。お勝は牧野の家を出て帰りかけたところで、月が明るいので近路をして草原の中を通って来ると、其処の松の陰にその暴漢が待っていた。
小格子ではあるがお職も張って、男あつかいに慣れている彼女は、燃えあがっている対手の心を撫でつけるようにして、隙を見て逃げようとしたところで、対手は野獣の本性をあらわして、帯の端を掴んで引もどそうとしたのであった。
お勝は絶体絶命であった。引戻されて対手の一方の手が肩にかかれば体の自由を奪われなくてはならなかった。お勝は引戻されまいとして夢中になって争った。その機《はずみ》に帯の結び目が解けた。黒繻子の帯の一方は暴漢の手に掴まれたなりに、痩せぎすなすっきりしたお勝の体はくるくると月の下に廻った。お勝の体はみるみる暴漢と二三尺離れたが機《はずみ》を喫《く》って膝を突いた。お勝は襲いかかってくる暴漢を払いのけるように、隻手をその方にやって一方の手で起きようとした。面長な色の白いお勝の顔が艶かしかった。暴漢は帯を捨てて迫って来た。
「なにをさらす、この無法者」
物凄い怒り立つ声がして暴漢の前に枴が閃いた。暴漢は立ち縮《すく》んだ。
「きさまは、地下《じげ》浪人じゃな、俺の家の嫁をどうしようと云うのじゃ」
背の高い短い刀を差した暴漢は、手習師匠をやっている林田与右衛門と云う浪人であった。林田はぎょろりとした眼で対手を見た。何時も見なれている翁の面の為作の顔があった。
「その女子には、俺が話したいことがある、邪魔をすると只ではおかんぞ」
「それは此方から云うことじゃ、この女子は俺の家の嫁じゃ、俺の家の嫁をどうしようと云うのじゃ、この無法者」
為作の手にした枴はまた閃いた。林田はちょと身をかわすなり、その手元につけ入って枴を奪いとってふりかぶった。その林田の眼の前にその時、不意に恐ろしいものが閃いた。それは薙刀を二つ組みあわせたような紫色を帯びた大蟹の鋏であった。林田は驚いて枴を投げ捨てて後へ退った。大蟹の鋏は其処にもあった。
「わッ」
林田は眼を押えて逃げて往った。為作とお勝は暴漢が逃げてくれたので安心して帰って来た。
「彼の無法者の逃げた容《さま》がおかしいじゃないか」
「眼を押えて逃げたのですが、どうかしたのでしょうか」
「枴の端《さき》でもあたったろうよ」
「そうでしょうか」
「そうとも、罰じゃよ」
四
翌朝になって為作は、女一人の夜歩きは物騒だから時刻を見はからって迎えに往くと云うことにしてお勝を出し、その後で源吉の守をしながら他家《よそ》から頼まれてある雨戸をこしらえていた。
為作は庭前《にわさき》の日陰に莚を敷いて其処で仕事をしていた。源吉は為作の傍にいたりいなかったりした。
夕方になって為作が仕事をおいて、夕飯の準備《したく》をしていると源吉がひょいと庭前へ来て立った。
「お祖父さん」
為作は囲炉裏の傍にいた。
「おう、源吉か、何処へ往っておった、お祖父さんは探しに往こうと思いよったぞ」
「お諏訪様へ往ってたよ、お祖父さん、今日はお諏訪様が出て来たよ」
「なに、お諏訪様が」
「そうよ、おいらが、お諏訪様の前へ往って、お諏訪様、お諏訪様、いっしょに遊びましょうっていったら、出て来たのだよ」
為作は何のたあいないことを云ってるだろうとは思ったが、源吉が如何にも真面目であるから、鍋の中を掻き混ぜていた手を止めた。
「出て来たって、何が出て来たのか」
「お諏訪様だよ」
「お諏訪様って、どんなお諏訪様じゃ」
「白い蛇よ」
「白い蛇が何処から出て来たよ」
「おいらが、お諏訪様、お諏訪様、いっしょに遊びましょうと云ってたら、神様の下の石の間から出て来たのだよ」
「それからどうした」
「おいらは、はじめはおっかなかったから、逃げちゃったが、追っかけて来ないの、横に寝たり、とぐろを巻いたりしてるから、おいらが、お諏訪様、輪になっておくんなと云うと、輪になったり、おいらが、お諏訪様、這っておくんなさいと云うと、這ったよ」
「そ、そりゃ、ほんとうか」為作は縁側の方へ這いだすように出て来て、「ほんとうか、源吉」
「ほんとうだよ、それからおいらが、お諏訪様、蟹を伴《つ》れて来ておくんなさいと云ったら、たくさん蟹を伴れて来てくれたよ」
「ほんとうか、ほんとうなら、もったいないことじゃ、そんなことをしちゃ神様の罰があたる、神様へお詫びに往かねばならん」
為作はもう夕飯のことも忘れていた。彼は庭におりて桶の水で両手を洗い、へぎを出して塩と米を盛った。
「源吉、さあ、これからお諏訪様へ往こう」
「またお諏訪様へ往くの」
「往って、お詫びをせんと罰があたる」
「そう」
為作は前《さき》に立って歩いた。源吉は後からちょこちょこと歩いた。外は樺色にくすんでいた。二人は出揃うた穂の真直に立っている麦畑の間を出て草原へ入ったが、草原の立木の下は暗かった。
二人はその暗い下を往った。お諏訪様の祠を抱くようにして立った榎の古木はすぐであった。其処は月の光であろう四辺《あたり》が明るくなっていた。為作は怖いような尊いような気がして、平生《いつも》のように平気で往くことができなかった。彼は祠から二間位離れた処へ坐って塩と米を盛ったへぎを前に恭しく置きながら、べったりと両手を突いて頭をさげた。
「今日は、何も知りません孫奴が、畏れ多いことをいたしまして、何ともお詫びの申しあげようがございません、それに悴が亡くなりまして、未だ一年の忌《いみ》ぶくのかかっておる身でございます、がんぜない小供とは申せ、お詫びの申しようもございませんが、そこが父親なしの哀れな小供でございますから、どうかお赦しくださいますように、この爺から幾重にもお詫びをいたします」
為作は平|蜘《ぐも》のようにしていた頭をちょっとあげて、左脇に並んで坐っている源吉の横顔を見た。
「お前もお詫びをしろ」
源吉は平気であった。
「お諏訪様は、怒りゃしないもの、呼んでみようか」
「こ、これ、何を云う」為作はあわてて遮って、「そ、そんな、もったいないことをしてはならんぞ、なんぼ何も知らん小供じゃ云うても、そんことをしては、神様のきついおとがめがあるぞ」
「だってお諏訪様は、おらの云うとおりにしてくれるのだもの」源吉はすまして云って手を合せながら、「お諏訪様、お諏訪様、ちょいと出ておくんなさい」
「しっ、これ、そ、そんなことを申しあげては、ならんと云うに、聞きわけがない奴じゃ」為作はそう云ってからまたべったりと平蜘のように頭をさげて「お聞きくださいまし、こんな物の判らん小供でございます、どうかお気になされないようにお願いいたします」
一心になってあやまっている為作の耳に嬉しそうな源吉の声が聞えて来た。
「お諏訪様が出て来た、お諏訪様が出て来た、お祖父さん、お諏訪様が出て来た」
「なに」為作はお詫びの詞《ことば》を忘れたように顔をあげて前を見た。
「見えるでしょう、お諏訪様が、おいらの方を向いて来る」
しかし、為作には中も見えなかった。
「見えるでしょう、白い※[#「女+朱」、第3水準1−15−80]《きれい》な蛇よ」源吉は前に指をさして、「それその蛇よ」
草、祠、祠を抱いた榎もはっきり見えるが、他には何もなかった。
「お祖父さんには見えない、見えなくても、も、もったいない」為作はとり乱したように云って地べたへ頭をつけて、「こんな小供の云うことをおとりあげくださいまして、ありがとうございます、ありがとうございます」
「お祖父さんは眼やにをつけてるだろう、顔を洗って来ると見えるのだ」
為作は顔をあげなかった。
「もったいない、もったいない、お祖父さんはどうでもええ、ありがとうございます、ありがとうございます、どうかお引取を願います、お前も何時までももったいないことをしてはならん、早う神様にお引取を願うがええ、もったいのうございます、もったいのうございます」
「お祖父さん、お諏訪様は、今輪になったよ」
「これもったいない、もったいないことを云うてはならんぞ」
「お諏訪様、お祖父さんは、お諏訪様が見えんと云います、蟹を伴れて来て見せてやっておくんなさい」
「罰あたり奴が、そ、そんな我がままを申しあげてはならんと云うに、神様、どうぞ、もう、こんな小供の云うことはおとりあげになりませんように」
「蟹が出た、蟹が出た、お祖父さん、お諏訪様が呼んだから、蟹が木の穴からぞろぞろ出て来たよ」
「もったいないと云うに、罰あたり奴が、そんなことを申しあげてはならんぞ」
「出て来たわ、出て来たわ、お祖父さん、一ぱいの蟹よ、見なさい」
「もったいない、もったいない、もったいないこ
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