《わか》い女の呼吸《いき》づかいまで聞えるような気配がする。それは玄関|前《さき》のようでもあれば表庭の方のようでもある。女房はふと夫に疑念を挟んだ。時どき夫が同役の処へ往くと云って出かけて往って、夜おそく酒に酔って帰ることもあれば、何か面白いことでもあったように浮うきした調子でものを云いながら入って来ることもあった。もしかすると他に女があって、時どき先方へ往ったり、また女の方からも此方へ来て己《じぶん》の寝入るのを待って、竊《ひそか》に庭あたりで媾曳《あいびき》しているかも判らないと思いだした。と、物干竿のことも二人が媾曳の合図にしたことのような気になって来た。
「もし、もし、もし、もし」
 外の女の温かな唇が見えるように思われた。どうしても夫の隠し女であると女房は思いだした。彼女はそっと起きて奥の便所へ往く方の縁側の雨戸を開けた。月の隠れた狭い庭に冷たい風が動いていた。彼女は裸足で家の東側を通って表庭へ往ってそっと簷下を覗いて見た。其処には何人《たれ》もいなかった。彼女は庭を横切って竹垣に沿うて玄関の方へ眼をやった。色の白い痩ぎすな女が雨戸にくっつくようにして立っているのがぼんやり見えた。たしかに夫の隠し女である。女房の眼は嫉妬に輝いた。彼女は耳門戸《くぐり》をつと開けた。女は跫音に驚いたように雨戸を離れた。赤い※[#「※」は「女へん+朱」、13−3]《きれい》な帯の端が女房の眼についた。
「どなたでございます」
 女房は憎むべき女の顔を覗き込んだ。細面の眼の水みずした女《むすめ》であった。
「……私は、私は」
 女の声は顫えた。
「どなた様でございます、何か私共へ御用でございましょうか」
 女房は厚顔《あつかま》しい女を思うさま恥かしめてやろうと思った。
「御主人は、お出でになりましょうか」
 女はおずおずと云いだした。
「主人は留守でございますが、御用なら私が承っておきましょう」
「御主人にお目にかかりたいと思うてまいりましたが、お留守なればまたまいります」
「主人に何の御用でございましょう、そして、貴女はどなた様でございます」
「私は、あのなんでございますが、御主人にお目にかかってから、申しあげます」
「そうでございますか、この夜更けに、お壮い御婦人が、よく、まあ、こんな処へ、お出でになりました」
 女房は嘲笑った。
「是非お目にかかって、お願い申したいことがありまして、それでは、またまいります」
「そうでございますか、それでは、また主人のおる時に、お出でなさいませ」
 女房は睨むように女の顔を見た。女は小声で何か云いながら頭をさげて門の方へ歩いて往ったが、左側の木立の傍へ寄ったかと思うともう見えなくなった。女房は不審して見ていたが、女の姿が見えなくなったのに安心してそっと引返した。
 益之助は先刻の枕のままで眠っていた。女房は己《じぶん》に秘密を知られたので狸寝入りをしていはしないかと思って、冷笑を浮べてその顔を見ていたが、益之助は何事も知らない容《ふう》で何時までも穏かな鼻息をしていた。

 朝になって女房は夫がどんな顔をするであろうかと思って、時どき意味ありそうにその顔を見詰めたが、夫はしらを切っているのか、別に何とも思わないような顔をしていた。
「あなたは、昨夜《ゆうべ》、よくお寝みになれましたか」
 こんなことを云っても夫は平常《ふだん》と同じような態度で、落ちつきのある返事をしながら旨そうに飯を喫《く》った。
「昨夜は、物干竿の音もしませんでしたね」
「昨夜は、やらなかったようだな」
 益之助は平常《ふだん》のようにして出て往った。女房は未だ疑念が晴れなかった。
 その夜はもう二人の口に物干竿のことは登らなかった。やがて寝床に入ったところで益之助は直ぐ眠ってしまったが、女房の方はまた今晩も前夜の女《むすめ》が来やしないかと云う嫉妬に駆られているので眼が冴えるばかりであった。その晩はすこし風があって庭木の枝葉のざあざあと靡いているのが聞えた。
「もし、もし、もし」
 昨夜《ゆうべ》と同じような女の声が玄関の方でしはじめた。女房は又来たのかと憤りながら、そっと昨夜の処から出て往った。そして、竹垣に沿うて覗いて見た。果して前夜の女の姿が暗い中に見えている。女房は耳門戸を開けて傍へ寄って往った。
「よくまあ遅くお出でになりました」
 女は黙って頭をさげた。
「お気の毒でございますが、今晩も主人は留守でございます」
 女はまた何か小声で云ったが、熱した女房の胸には聞えなかった。
「主人は、この比《ごろ》、毎晩留守でございますから、お出でになりましても、当分お目にかかれますまい」
 女は二三度頭をさげて何か云ってからすうと門の方へ往ったが、前夜の木立の処でまた見えなくなった。風に吹かれている木の葉が二三枚ぎらぎらと青
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