碧玉の環飾
田中貢太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)代宗帝《だいそうてい》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)勅使|高力士《こうりきし》
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 唐の代宗帝《だいそうてい》の広徳年間の事であった。孫恪《そんかく》という若い貧しい男があって、それが洛陽にある魏土地《きとち》という処へ遊びに往った。遊びに往ったといっても、それは物見遊山《ものみゆさん》のためでなく、漂白して往ったもののように思われる。ところで、この魏土地に女主人で袁《えん》を姓とする豪家があった。孫恪は別に目的もなかったが、その前を通りかかったので、ちょっとした好奇心から覗いてみると、門番も何人《たれ》もいない。で、門の裡《なか》へ入ると、青い簾《すだれ》を垂れた小房《こざしき》があった。孫恪はその傍へ寄って、裡《うち》の容子《ようす》を伺おうと思っていると、裡から扉を開けて若い綺麗な女が顔を出した。
 孫恪はこの女は主人の娘であろうと思ったので、あいさつしようとすると、女は驚いて引込んでしまった。孫恪は調子が悪いのでぽかんと立っていると、青い着物を着た少女が出てきて、
「何の用があって、ここへきたのか」
 と聞く。で、孫恪は、
「通りすがりに入ってきた者だ、尊門《そんもん》を汚して相済まん」
 と言って、みだりに門内に入った罪を謝した。
 そこで青衣の少女は裡へ入ったが、暫くすると最初の女が少女を伴《つ》れて出てきた。孫恪は少女に向って、
「この方は何人《たれ》か」
 と、聞くと少女は、
「袁《えん》長官の女《むすめ》で、御主人である」
 と言った。
「御主人はもう結婚なされておるか」
 と、孫恪がまた問うと、
「まだ結婚はなされていない」
と、少女が応《こた》えた。
 その後で、女は少女といっしょに引込んでいったが、すぐ少女に茶菓を持たしてよこして、
「旅人の心に欲する物があれば、何によらず望みをかなえてやる」
 と言わした。既に女に恋々の情を起している孫恪は、
「我は貧しい旅人で、学も才もないのに引代え、袁氏は家が富んでいるうえに、賢であるから、とても望まれない事であるが、もし結婚する事ができれば、大慶である」
 と言って、結婚を申込むと、女は承諾して少女を媒婆《なこうど》にして結婚の式をあげるとともに、孫恪はそのまま女の家に居座って入婿となった。
 そのうちに四年の歳月が経った。孫恪は某時《あるとき》、親戚の張閑雲《ちょうかんうん》という者の事を思いだして、久しぶりにその家へ往った。閑雲は孫恪の顔をつくづく見て、
「お前の顔色は非常に悪い、これはきっと妖怪に魅いられている」
 と言ったが、孫恪は別にそんな心あたりもないので、
「別に怪しいと思う事もないが」
 と不審する。
「人は天地陰陽の気を受けて、魂魄を納めている、もしその陽が衰えて陰が盛んになれば、その色がたちまち表に露《あら》われるが、本人には解らない」
 と、閑雲が主張するので、孫恪は袁氏の婿になった事を話した。すると閑雲が、
「それが怪しい、速《すみやか》に去るがよい」
 と、言って勧めたが、孫恪は、
「しかし、袁氏は財産があるうえに賢明な女で、我《おれ》のために非常に尽してくれている、その恩に対しても棄て去る事ができない」
 と言って、その言葉を用いないので、閑雲が怒って、
「邪妖の怪恩は恩とは言えない、またそれに叛いたからとて不義とは言えない、我家に宝剣があるから、それを貸してやろう、それを帯びて往けば、妖魔の類は千里の外に遁げ走る」
 と言って、一振の刀を出してきた。
 孫恪は心に惑いながらも、その剣を持って帰った。すると袁氏は既にそれを悟って、
「郎君《あなた》はもと貧しかったのを、私が憐んで夫婦となり、交情も日ましに厚くなっているにかかわらず、その恩義をわすれて、私を棄てようとするのは、人の道にはずれたしうちだ」
 と言って泣いた。孫恪はその言葉を聞くと非常に心に恥じた。
「これは自個《じぶん》の本意でなくて、親戚の張閑雲から強いて言われたから、しかたなくやろうとした事だ、どうか怒りをやめてくれ、我には決して二心がない」
 と、これも涙を流してあやまった。
 そこで袁氏は孫恪の持ってきた剣を手に取って、それを箸を折るようにぽきぽきと折った。孫恪は懼《おそ》れて遁げ出そうとしたが、それも怖ろしいのでわなわなと慄えていた。袁氏は莞爾《にっ》と笑って孫恪の顔を見て、
「数年間も同居して、こうした間になっているから、決して郎君を害する事はない」
 と言った。孫恪は遁げるのも怖ろしいのでそのまま袁氏の婿となっていた。その後、孫恪は張閑雲に逢って、その日の事を話すと、閑雲は仰天して、
「変異測りがたし」
と、言って、それから孫恪と逢わないよ
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