ぱいになった。
 その勘右衛門が某日、山をおりて村の居酒屋へ往ったところで、居酒屋へ来あわせていた知り合いから妙なことを聞かされた。それは、お前の家《うち》に逗留している旅僧は、お尋ねものであるまいか。何でも政治向のことで上方では騒動があって、謀叛《むほん》を企《くわだ》てた一味の中には、殺人《ひとごろし》までしながら網をくぐって、西国へ逃げた者があるそうだ。もし、其の旅僧がそのうちの一人だとすると、早く警察へ突き出さなくてはならないと云うような事であった。
 勘右衛門はその時、女房が旅僧から金を貰い、そのうえ、千代を嫁にしたいと申し込まれていると云うことを聞かされた。勘右衛門の苦悶は絶頂に達したが、頭を痛めるのみでどうすることもできなかった。
 旅僧は潔癖で、風呂が好きであった。千代はいつも湯殿へいって背中を流したり、肩を揉んでやったりした。其の夜も旅僧は湯槽《ゆぶね》につかって、気もちよさそうに手拭で肩から胸のあたりを流していた。
 外には月の光が漂よっていた。と、不意に風呂場へ忍び寄った覆面があった。覆面の手には種ヶ島《たねがしま》が握られ、火縄の端が蛍火のように光っていた。
 千代が銃声に驚いて駈けつけた時には、旅僧は胸に弾丸《たま》をうち込まれて、その血で湯を赤く染めている処であった。千代はきっと云って其処へ倒れてしまった。
 殺された旅僧は、政治犯人ではなく、諸方を荒した強盗であるとのことであったが、はっきりしたことは判らなかった。
 そこで、警察の方では、旅僧の死体を葬るとともに、旅僧を惨殺した犯人を捜査したが、それも手がかりがなかった。
 それがために、旅僧の処置に困っていた勘右衛門に嫌疑がかかり拘引《こういん》せられることになった。哀れな千代は、そんなこんなで気が狂った。
 そして、彼方此方《あっちこっち》へ往って、何処の家の風呂でもおかまいなしに覗《のぞ》き込んで泣いていたが、終《しま》いには空の浴槽《ゆぶね》の中へ裸体《はだか》で入っていたり、万一これをさまたげる者でもあると、火をつけようとするのに手がつけられなかった。
 そこで勘右衛門の家では、千代を座敷牢へ入れたが、何時《いつ》の間にか脱け出して、自分の家へ火をつけて、浴槽の中へ入って焼死した。
 それと前後して、旅僧を惨殺した真犯人が縊死《いし》したので、勘右衛門は未決から釈放《しゃくほ
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