また山内家の家老として当時権勢のあった柴田備後の家に、そんなことがあると聞えては主人の威信にも関すると思った。賢明な彼女は男勝りのしっかりしたその腹の中へ、それをしまい込んで何人《たれ》にも話さなかった。
 それから三日ばかりしてのことであった。昼の疲れにぐっすり眠っていた彼女は、夢心地に何人かが己の額をばたばたとたたくように思ったので眼を開けて見た。前夜踊っていた赤毛の猫が枕頭へ坐って、二本の前肢を揮りあげ揮りあげ己の額を打っているところであった。それには流石の老女もびっくりした。彼女は声をあげながら飛び起きた。と、猫はそれに恐れたように飛んで出て往った。
 二度目の奇怪を見た老女は、何人にも話すまいと思っていた考えを変えて、その翌朝、起きたばかりの主人備後の処へ往って話した。
「そうか、面白いことをやりおるな」
 備後はこう云って微笑した。
「それでは、あの猫を、どういたしましょう」
「まあ、捨てて置け、好いだろう」
 備後の性質は老女もよく知っていた。彼女はもう何も云わなかった。

 備後は猟が好きであった。彼は暇さえあれば小銃を肩にして出かけて往った。秋の末になってまた少しの暇ができたので、今度は北山の方へ往くと云って、己《じぶん》の室《へや》で鉛を熔かしてそれで十匁弾を鋳ていた。火鉢に掛けた小さな鋳鍋の中にどろどろになった鉛を、粘土で造えた型へ鋳込んでいた。
 備後は弾を十個位造えるつもりであった。彼は鋳鍋の柄を持って鋳込んだ弾は幾個《いくつ》あるだろうと思って、台の上にのせた鉛の鋳込んだ型に眼をやった。鋳込んだ型は九個《ここのつ》であった。
「九つ、も一つじゃ」
 備後は鋳鍋をまた火の上にやりながら見るともなしに台の向うの方へ眼をやった。赤毛の肥った飼猫が前肢を立ててじっと此方を見ていた。
「ほう、見ているな」
 備後はこう云って微笑しながら鋳鍋の鉛は出来たようであるから、それをまた一つの型の穴に鋳込んだ。
「これで、十だ、十あれば、大丈夫、これで、よし、よし」
 備後は鋳鍋を台の端へのせて初めに鋳込んだ型の泥を落しはじめた。泥の中からは白い十匁弾が光って出て来た。この時備後の方を見ていた猫は、そっと何処へか往ってしまったが、備後はそれを知らなかった。備後は三つ目の弾を型の中から執りだした時、未だ鋳鍋の底にすこし鉛の残っていたことを思いだした。で、ついで
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