るとおり、孫次郎殿をさし置いて、千熊丸をお世嗣ぎとなされることは、順序を乱すの恐れがあると存じます」
親実の右隣から詞《ことば》を出すものがあった。それは、左京之進の同族比江山親興であった。
「吉良殿の申されるところも一理があると思われますが、お家のことは、お家の頭領になる者の思うとおりにするのが、理の当然かと考えます」
家老の久武内蔵助親信が左京之進の詞を駁した。親信は父内蔵助親直の後を継いで佐川を領していたが、大仏殿建立の用材を献上した時、元親の命を受けて仁淀川の磧《かわら》で、その材木の監督をしていたところに、左京之進親実が数人の者と狩に来た。傲慢な親信は仕事にかこつけて見向きもしなかったので、血気の多い親実は怒って矢を飛ばした。矢は親信の笠に音を立てて放《は》ねかえった。親信はその怨みを何時も持っていた。
「如何に家の頭領であろうとも、人の道にはずれたことがあってはならん、人の家来となって、その君が不義に陥るのを諌めもせずに、却てその不義を助けるとは、言語道断の所業じゃ」
左京之進は親信の顔を睨みつけた。一座はしんとした。
「吉良殿には、奇怪至極なことを仰せられるものじゃ、御主君には、信親殿の討死を御歎きの余り、せめてその姫君を千熊丸の御内室にして、それを忘れたいとの御心でございますぞ、それをお考えなさらずに、彼《あ》れ此れと申さるるは、第一御不孝の所業かと思われます」
親信も負けてはいなかった。
「何が不孝じゃ、不義に陥ろうとしているところを、陥らせまいと思うて諌めておるのじゃ、其処許《そこもと》のような無道人に阿諛《ついしょう》を云われて、人の道を踏はずそうとしているところを、はずさせまいとするに何が不孝じゃ」
「もう、よし、云うな」
不快な顔をして坐っていた元親は、急に立ちあがって奥の間へ入ってしまった。
当時吉良親実は小高坂《こだかさ》――今の県立師範学校の裏手――に住んでいた。彼はその日限り、元親の前へ出仕することを止められた。久武内蔵助が仁淀川の復讐をする時節が来た。内蔵助は日々元親の傍で彼を讒謗した。
桑名弥次兵衛、宿毛《すくも》甚右衛門の二人は、元親の命によって小高坂の邸へ遣わされた。それは天正十六年十月十四日のことであった。親実はその日客を対手にして碁を打っていた。親実は取次が報知《しら》せてくると、おろそうとした石を控えて
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