、「本庄に二町四方の地を賜ひ、非人をして死骸を船にて運ばしめ、塚を築きて寺院を建て、国豊山無縁寺回向院と名づけしめ給ふ」と武江年表に書いてあるが、これが回向院の起りである。その明暦の大火は俗に振袖火事という名があって、奇怪な因縁話がまつわっている。
 寛永四年十月には、山城、大和、河内、摂津、紀伊、土佐、讃岐、伊予、阿波、伊勢、尾張、美濃、近江、遠江、三河、相模、駿河、甲斐、伊豆、豊後の諸国にわたって大地震があって、人畜の死傷するもの無数。そして土佐、阿波、摂津、伊豆、遠江、伊勢、長門、日向、豊後、紀伊などの海に面した国には海嘯があったが、そのうちでも土佐などは海岸の平地という平地は海水が溢れて被害が大きかった。「基※[#「熈」の「ノ」の左側に「冫」、第3水準1−14−55]公記」などには、「四国土佐大震国中十に七つ破損、人民四十万人死」としてあるが、実際は二千人ぐらいであったらしい。その大地震の恐怖のまだ生生している十一月に、駿河、甲斐、相模、武蔵に地震が起ると共に、富士山が爆発して噴火口の傍に一つの山を湧出した。これがいわゆる宝永山である。山麓の須走村は熔岩の下に埋没し、降灰は武相
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