、山城と近江がひどく、余震が九月まで続いた。延久二年十月の地震は、山城、大和の両国が強く、奈良では東大寺の巨鐘が落ちた。山城、大和の強震は、その後寛治五年にも永長元年にも治承元年にもあって、東大寺に災してまた巨鐘を落した。
 元暦二年七月の地震は「平家物語」に「せきけんの内、白川の辺、六せう寺皆破れくづる、九重の塔も、上六重を落し、得長寺院の三十三間の御堂も、十七間までゆり倒す、皇居をはじめて、在在所所の神社仏閣、あやしの民屋、さながら皆破れくづるる音はいかづちの如く、あがる塵は煙の如し、天暗くして日の光りも見えず、老少共に魂を失ひ、調咒ことごとく心をつくす」と言ってある。「大日本地震史料」にこれを文治元年七月九日と改めてある。この地震は九月まで余震が続いた。区域は、山城、近江、美濃、伯耆の諸国に跨っていた。これには宇治橋が墜落し、近江の琵琶湖では湖縁の土地が陥落し、湖の水が減じたらしい。
 近畿以外の地では、天武天皇の六年十二月に筑紫に大地震があって、大地が裂け、民舎が多く壊れた。同十二年十月には諸国に地震があって、土佐が激烈を極めた。これがいわゆる白鳳の地震で、土佐では黒田郡の一郡が陥没したと言い伝えられている。霊亀元年五月には、遠江国に大地震があって、山が崩れて※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1−94−76]玉河を壅いだが、続いてそれが決潰したので、敷智、長下、石田の三郡の民家百七十余区を没した。天平六年四月には、畿内七道皆地震がし、同じく十七年四月には、美濃、摂津両国に地震があった。この両国の地震は美濃がひどく、多く人家を壊ったが、これは明治二十七年の濃尾の地震を思い合わせるものがある。天平宝字六年五月になって、また美濃をはじめ、飛騨、信濃の諸国に地震があった。天平神護二年六月には、大隅国神造新島、弘仁九年七月には、相模、武蔵、下総、常陸、上野、下野の諸国、天長七年一月には、出羽に地震があった。その他、三河、丹波、伊豆、信濃、出羽、越中、越後、出雲にも大きな地震があったらしい。
 貞観六年七月には富士山の噴火に伴うて大地震があって、噴出した鑠石は本栖、※[#「(戈/戈)+りっとう」、第3水準1−14−63]の両湖をはじめ、民家を埋没した。富士山は既に延暦二十年三月にも噴火し、その後長元五年にも噴火したが、この噴火とは比べものにならなかった。貞観六年十月には
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